第37回「小説でもどうぞ」佳作 すごい○○ あたまぎ香子
第37回結果発表
課 題
すごい
※応募数207編
すごい〇〇
あたまぎ香子
あたまぎ香子
勤務時間が終わって、バックヤードの事務室で休んでいると、店長が入ってきた。見たことのない若い子を後ろに連れている。肌の色が少し濃く、見るからに外国人だ。茶色がかった髪を後ろで一つにきっちりまとめて、むき出しのおでこには太めの眉とぱっちりとした目が目立っている。
店長は俺に気づくと、彼女の横に立って言った。
「明日から働いてもらうことになったグエン・ランさん。ベトナム人で東信大学に留学してるんだって。コンビニのバイトは初めてらしいから、野々村くん、先輩としていろいろ教えてあげてね」
「グエン・ランです。よろしくお願いします」
まつげの長い大きな目で俺を見ていた彼女は、にっこりと笑った。けっこうかわいい、かもしれない。
自動ドアのチャイムが聞こえて、事務室から店長が出て行く。俺は食べていたスナック菓子の袋を差し出しながら、さっそく話しかけた。
「俺は野々村。東信大ってすごいね。もしや日本語もペラペラとか? これ、すごいおいしいよ、食べたことある?」
ランちゃんはキョトンとした顔で固まった。あれ、やっぱり日本語わからないか? と思った瞬間、ランちゃんは早口で話しはじめた。
「『すごいおいしい』は間違っています。『すごい』も『おいしい』もどちらも形容詞です。だから一緒には使えないです。使うなら副詞です。『すごく美味しい』とか、『とても美味しい』は正しいです」
今度は俺がキョトンとする番だった。ケイヨウシ? フクシ? 「すごいおいしい」ってダメなの? みんな使ってるだろ?
「『すごく美味しい』です。違いますか?」
ランちゃんがもう一度言う。すごいこだわる子だな。
「いいんだよぉ、『すごいおいしい』で。すごーい! おいしーい! ってより気持ちがこもってるの。日本人の俺が言うんだから間違いない」
とは言ってみたものの自信はない。ランちゃんは疑いの目で見ている。ポケットからスマホを出して調べる。確かに、「すごいおいしい」は文法的に間違っている、と書かれたサイトがいくつも出てきた。
「そうなのか……」
つぶやいて顔を上げると、勝ち誇った顔がそこにあった。
次の日から同じシフトに入ったランちゃんは、よく働いた。そして、俺の日本語のチェックも怠らなかった。日本語学専攻なだけあって、すごい厳しい。難しい日本語の試験に合格するために頑張って勉強してきたのに、日本人の俺が平気で間違うと腹が立つんだそうだ。「一番最初にこれをして」と言えば「二重表現ですよ」と言われ、「昨日のお笑い、マジおもしろかった。爆笑したわー」と話していると「一人で笑ったのに爆笑ですか!?」と突っ込まれる。おちおち会話もできやしない。「千円からお預かりします」とお客に言えば、レジの下で足を踏まれる始末だ。
特に「すごい〇〇」は癖になっているらしく、うっかりすると言ってしまう。一度、ランちゃんが髪をおろしてきたことがあった。パーマをかけたのか、今時の大学生らしく、ふわっとした巻き髪になっている。思わず「今日すごいかわいいじゃん」と声をかけると、「『すごくかわいい』です!」と顔が赤くなるほど怒って、すぐに更衣室に入ってしまった。制服に着替えて出てきたときには、髪の毛はいつものように後ろで一つに丸まっていた。
一年が経った。ランちゃんのおかげもあって、俺の話し言葉はかなり変わってきた。「すごい」と「ヤバい」だけで話していた内容も、上手く言語化できるようになった。敬語も正しく使えるようになってきた。職場での評価も上がり、バイトリーダーに昇格した。
そして、今日、俺は自分の想いを伝えようと思って、ランちゃんのシフトが終わる時間に裏口の外で待っている。手には生まれて初めて買ったバラの花束。年甲斐もなくドキドキして、足が震えている。中から「おつかれさまでした」と言うランちゃんの声が聞こえる。もうすぐだ。
裏口の戸が開いた。ラフなジーパン姿のランちゃんが俺の姿を見て、目を見開いた。花束を差し出す。
「ランちゃん、すっっっごい好きです! 付き合ってください」
大きな声で言ってから気づいた。しまった! またうっかり、『すごい』って言ってしまった。
驚いた顔のまましばらく止まっていたランちゃんは、小さく息を吐きつぶやいた。
「すごい! 好き! っていう気持ちは伝わりました。でも無理です」
目の前が真っ暗になる。やはりランちゃんと釣り合うには、いついつも正しい日本語が使える男にならなければならなかったか……
呆然と立ち尽くした俺を睨んで、ランちゃんは言った。
「申し訳ないですが、お父さんと同じ年の男性とはお付き合いできません。逆によくいけるって思いましたね。野々村さん、すごいですね」
(了)