第37回「小説でもどうぞ」佳作 父母の結婚 北島雅弘
第37回結果発表
課 題
すごい
※応募数207編
父母の結婚
北島雅弘
北島雅弘
死んだ父がちょくちょく顔を出すようになった。このあいだは風呂に入っているときに湯船の中から顔を出したので驚いて溺れるところだった。その前はみんなで飯を食べているときに、知らぬ間に横に座って一緒に飯を食っていた。子供が「誰か知らないおじさんがご飯食べてるよ」というので横を向いたら親父が箸を持って座っていた。
現れて、何がいいたいというわけでもないらしい。たいていは黙って風呂に浸かっていたり飯を食っていたりする。先日は一緒にテレビを見て笑っていた。ずっとそんな調子なので、笑っている横顔に何かしてほしいことでもあるのかと訊いてみた。
「いや、別に」
「じゃあ、なんで出てくるんだよ」
「邪魔か」
「いや、邪魔ってわけじゃないけど」
「けどなんだ」
「おかしいだろう。死んだ人間と一緒に風呂に入ったり、飯を食ったりしているのは」
「そうか? 昔の人はみんなそうしたものだがな」
「昔の人っていつの人だよ」
「平安時代とか」
「とか?」
「とか、とかだ。歴史のことはよく知らん」
親父は無学で家にはほとんど本がなかった。私が大学に行くといったときには、「大学を出たってどうせみんなに仲間はずれにされるだけだぞ」といった。父は職業を転々としたが、父の働いた職場の中には大学を卒業している人は誰もいなかったのだろう。
父は酒飲みで、競輪、競馬、パチンコ、麻雀が大好き。家にはまっすぐに帰ってきたことがない。給料日には賭け事で金を擦ってしまい、一万円札一枚だけの入った給料袋を持ってくるのもたびたびだった。札一枚を残しておくのは、さすがに全部使ってしまうと母の逆鱗に触れて家を追い出されかねないと思ったからだろう。しかしそんな状態で帰ってきたら母の許しを得られないことはわかりきっている。
「これでどうやって一カ月生活していくのよ」
と怒鳴られていた。そんなとき父は背中を丸めて小さくなっているのだが、ほとぼりが冷めた頃にすぐにまた同じことを繰り返すのだった。母は父の行状にほとほと手を焼いていた。何をいっても駄目。泣いても駄目、叱っても駄目で、もうこの人を改心させることはできないと考えていたようだ。
父が四十九で亡くなったのは平成十四年のことだから、会うのは二十二年ぶりのことになる。母も去年亡くなってちょっと寂しさを感じていたところだから、父が出てくるのは別に悪いことじゃなかった。その辺に座って静かにしてくれているのであれば。
それがこの幽霊、慣れてくるとだんだんとうるさくなってきたのだ。私の仕事が忙しくて帰りが遅いと、「仕事と家族とどっちが大事だ」というし、「聡美さん(妻の名)をもっと大切にしてやらなければいかんではないか」とか、自分のことを棚に上げていちいち口出ししてくる。
「あんた、それじゃあ、自分はどうだったのだ。酒ばっかり飲んで、賭け事ばっかりして、家庭を顧みることなんか一度もなかったじゃないか」
私がいうと、「昔は今と違って娯楽が少なかったからな」ととぼけた返事をする。
実際、母は私たちによく「あんなろくでもない人と結婚するんじゃなかった」といっていた。
「あの世に行ったら母さん、父さんともう一度結婚する?」と訊いたことがある。
「むこうであの人の顔を見たら私はすぐさま逃げ出すよ」と母はいった。
また父が出てきて縁側で足の爪を切っている。私はその横に腰を下ろした。庭には赤い曼珠沙華の花が数輪咲いている。
「なあ父さん、何かいいたいことがあるんだろ」
父は下を向いたまま爪を切っている。
「まあな。ないこともないが」
「成仏できないで苦しいのか」
「そういうことではない」
「じゃあ、なんなんだよ」
「うーん」と父は唸った。よほどいいにくいことらしい。
「あの世でのことか?」
「まあ、そうかな」
「あの世でどうしたんだ」
「母さんがな。来たんだ」
私は、向こうであの人の顔を見たらすぐ逃げ出す、といった母の言葉を思い出した。いやな人と会った、と母は思ったに違いない。
「それで? 母さんが逃げ出したのか」
「なんでわかる?」
「それくらいのことわかるさ。あんた、ろくでもない夫だったからな」
「そうか。確かにな。あいつ、俺の顔を見たら背中を向けて逃げ出しやがった。俺はその後を追って袖を引っ張ったんだ」
「喧嘩したんだろう。昔みたいに」
「そうだな」
「愚痴をいいに来たのか」
「そんなんではない」
まだるっこしい。一体何がいいたいのか。
「実は」
次の言葉をいうまでに少し時間がかかった。「母さんとまた付き合っているのだ」
私は驚いた。あれほど嫌っていた男とまた付き合い始めるとは。
「それりゃあ、いいことじゃないか」
「母さんは俺のことを、あ、あ」
「あ、なんだよ」
「愛しているといってくれた」
「へえ、それはすごいや」
「それで、結婚式を挙げることにしたのだ。式も挙げずに一緒になったからな」
「なんだ、そんなことか。すればいいじゃないか」
「ついては、挙式の費用を貸してくれないか。擦ってしまって、一文もないのだ」
父はわたしの顔をまっすぐ見ていった。
(了)