第37回「小説でもどうぞ」佳作 「すごい」禁止令 昂機
第37回結果発表
課 題
すごい
※応募数207編
「すごい」禁止令
昂機
昂機
「お兄ちゃん、それやめて」
食卓を挟んで座る高校生の妹が、こちらに険しい顔を向けていた。それってなんのことだろう。
「その適当な返事! 前も言ったでしょ?」
「返事?」
「さっきから『すごい』しか言ってないじゃん。自覚ないならもっと最悪なんだけど!」
「え、すごい」
「ほらそれ!」
本当だ。俺は思わず手で自分の口を塞いだ。まったく自覚がなかった。
「気づいてなかったかもしれないけどね、毎回それだから。私が何言っても『すごい』ばっかり返してくるじゃん!」
「なんか……ごめん」
思い返すと、確かに妹の言う通りだった気がする。
「今日学校で抜き打ちテストがあってさあ」「へえ、すごい」
「昨日のバイトがエグいほど忙しくて」「そりゃすごいね」……。
自分で自分の適当さに冷や汗をかく。
多分、もうくせになっているのだ。大してすごいと思っていないくせに、反射的に口からその言葉が出る。「ああ」とか「うん」みたいに、相槌として脳みそに完全にインプットされてしまっているのだろう。おそらく両親たちとの会話でも同じような醜態を晒していたに違いない。
「謝らなくていい。今日から『すごい』禁止ね!」
妹はびしっと人差し指を突き出した。
「す」
言いかけて、俺は再び自分の口を塞いだ。
それからというもの、俺は生きづらい日々を送ることになった。
妹と話すときはもちろん、両親との会話や、会社で同僚とともに過ごす昼食時も気を配る。普段から気をつけないと、治るくせも治らない。ふとした瞬間、無意識的にあれが出てしまいそうになるたび、俺は喉を鳴らして言いかけた言葉を飲み込んだ。
「あれ、もう食わないの?」
「いやあ、最近ちょっと食欲落ちてて……」
同僚の心配げな目に、笑顔で対応する。まだうどんの残ったトレーを持って、先に食堂の席を立った。
言葉を飲み込むたび、自分がどれだけ今まで考えなしにしゃべっていたか、くせを治すのがどれだけ難しいかを思って落ち込む。しょうもないことに対して沈む自分に、さらにもうちょっと落ち込む。落胆の二段構えのせいで、体の調子があまりよろしくなかった。禁止令を言い渡されて早二週間、ストレスばかりが募っていく。
かと言って、情けない理由による体調不良で今日の飲み会は欠席できない。そもそも幹事は部署内で一番下っ端の俺だ。休むなんてもってのほか、むしろ誰よりテキパキ動かなくては。
「部長、ビールのお代わりどうぞ!」「すみません、こっちのグラスも下げてくださーい!」「いやいや課長、俺めっちゃ食べてますからね!」「す……飲みっぷりヤバいですね先輩!」
注文や酒のお酌、各テーブルにある料理の残量管理、話題の受け渡し……。飲み会が始まってからというもの、俺には一息つく暇さえなかった。先輩たちからはいらぬ配慮で「遠慮しないでお前も飲め飲め!」と酒を押しつけられ、そのたびにぐいっと飲み干す俺のサービス精神たるや。三次会が終わった頃には、もうドロドロのくたくた。無理に詰め込んだ料理と酒のせいで、胃が気持ち悪いったらありゃしない。深夜、無事に帰宅できたのが奇跡とすら思えた。
玄関の鍵を掛けた瞬間、俺は扉を突き破る勢いでトイレに飛び込んだ。スーツのまま便器に顔を突っ込む。早く胃の中のものを吐き出したい。吐いて楽になりたい。なんだか重りが腹の中に詰め込まれているようだ。気持ち悪い、無理無理、早く出てきてくれよ、なんだよなんか喉の奥に引っ掛かっているような……。
俺は口の中に指を突っ込んだ。と、喉の奥で何か固いものが指先に触れる。歯か? 違う。もっと大きくて細い。触るうちに、なんだか指を引っかけられる輪のようなものがあると気づいた。
その輪を、思い切り引っ張る。ためらいはなかった。
「うげ、げ、……は?」
瞬間、口から出てきたのは『すごい』だった。音としてではなく、『すごい』という文字そのものが出てきたのだ。そいつは便器の水の中にぼちゃんと落ち、沈んでいく。さっき指に引っ掛かったのは「すごい」の「す」の輪の部分か。なるほど、俺が我慢した「すごい」は、ずっと胃に溜まり続けていたんだ。変に冷静な頭がそう判断する。
ぼちゃん、ぼちゃぼちゃぼちゃ! 「すごい」がどんどん俺の口から出てくる。そのたびに便器へ落ちる。「すごい」「すごい」「すごい」ぼちゃぼちゃぼちゃ! 抑えることができず、俺は便器を抱えてただ吐き続けることしかできなくなっていた。
「お兄ちゃん、大丈夫……? え、なにこれ⁉」
異変に気づいた妹が来たときには、トイレは「すごい」で溢れ返っていた。便器からはみ出したひらがな三文字が、床に高く積みあがっている。
「た、大変!」
妹が洗浄レバーを回す。水音がして「すごい」が少しずつ流れていく。
「そ、その手があったか……サンキューな……」
これで一安心だ。そう思ったとき、トイレが物凄い音を立てて破裂した。恐らく、無理やり流されていた「すごい」が水道管を突き破ったのだ。
俺と妹は「すごい」の波に押され、廊下を滑って玄関にぶち当たった。その頃にはもう、俺の吐き気も収まっていた。
俺たちはしばし無言のまま、周囲の惨劇を眺める。
「なんか……ごめんね」
妹がぽつりと呟いた。それを合図に、俺たちは散らばった「すごい」を片づけ始めた。
(了)