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第37回「小説でもどうぞ」選外佳作 掴みたかった未来 とがわ

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小説・シナリオ
小説でもどうぞ
第37回結果発表
課 題

すごい

※応募数207編
選外佳作 

掴みたかった未来 
とがわ

 自分が目指しているものの、その理想像が目の前に現れたとき、「すごい」と思う。そうしてそれが糧になって奮起する。というのは絶対的なルートではない。むしろ、ぎゃくに、「すごい」から絶望することがある。自分にここまでのものはできないと知ってしまうこと。諦めるのではなく、諦めさせられるということ。希望をもって、掴みたい目標に瞳を輝かせて走っていたのに、圧倒的な実力の差を突きつけられて、生まれた瞬間から成功とそうでない道に枝分かれしていたんだと知ってしまう。それは弱さだよと誰か言う。本当に「すごい」人は、すごい人を前にして背中を押され、もっと頑張ろうと奮闘するのだろうか。挫けずに踏ん張って目指すから強いのだろうか。
 たとえばピアノだとする。自分にはとうてい弾けないと悟るほどのすごい演奏を前にしてその道を諦めざるを得なくなるとする。でもただピアノが好きなのならば何もピアノをやめる必要はない。自分だけの音を信じて弾き続ければいい。ピアニストだとか優勝を目指さなくても自分を信じて音を奏でていれば。けれどそれすらももう向き合えなくなる。耳の奥いっぱいに響くほどにはっきりと、これまでの日々ごと心の軸をボキっと折られたあの瞬間を、わたしはきっと一生忘れない。
 ホールに響き渡るメロディー。隙間という隙間にも染み込んでいく繊細で濃密な音色。同じ曲を弾いているはずなのに全く違う曲に聴こえたのはなぜか。精いっぱいの演奏をして達成感で満たされたのはほんのつかの間だった。自分の演奏に満足したことすら恥ずかしいと思わされ、膝から崩れ落ちる。
 同じスタインウェイでショパンの曲を響かせたのは、先月引っ越してきたばかりの年下の男だった。高校でも、通っている音楽教室でもわたしが一番ピアノがうまかったのに、突然現れた、しかも三つも年下の男にわたしの座を一瞬で奪われたあの瞬間。崩れ落ちたと同時に奥歯をぐっと噛んで憎んだ相手。
 けれどこれを友人に言えば笑われるのは自分なのだとわかっていた。一番を奪われたのなら奪い返せばいい。その子がわたし以上に努力をしてきただけ、自分も努力をすればいい、崩れ落ちるなんて根性が足りない。そんな風に思われて、わたしの努力を知らない人たちが揶揄やゆするだけ。
 自分の努力を認めてもらいたいわけでは決してなかった。根性だとか熱量だとかで語られたくはなかった。時間さえあればピアノに費やしてきた。ピアニストも夢ではないと先生にも言われた。それがただのお世辞だとは思わなかった。わたしのピアノはちゃんとすごかった。すごかった。だから何かの間違いなのだと気を取り直して次のコンクールに向けて弾き続けた。弾き続ければ続けるほど、乱雑になっていく。焦る気持ちがあちらこちらにあらぶって、音に雑音が混じる。これでもかというほど練習を重ねた。それでも彼のピアノ技術に追いつくことはできなかった。折れた心の軸はもう修復しない。どんなに絆創膏ばんそうこうを貼りつけてもそれは見せかけだけで折れたものは治って強化されることなどない。気づいたときにはもう弾き続ける力は残っていなかった。
 認めたくはなかったけれど、彼は天才だったと思う。世の中は天才は努力の賜物であると主張する。そうは思えなかった。わたしがこんなにやっているのに追いつけない場所に彼は最初からいるのだと思った。わからない。そう思わないと自分を保っていられなかっただけなのかもしれない。
 あれから気づいたら音楽の教員になっていた。もう弾けないと思っても鎖で離れられなくされていて、それに安堵しながらも一番になれる瞬間はもうこないのだと悟っている。学校では生徒が主役でわたしは完全に脇役になった。その生徒たちは汗水垂らして格好悪く精いっぱいに目の前の希望にしがみついている。そこに天才はやっぱり潜んでいる。多方面の部門で優秀という生徒を前にするとついあの男のことを思い出して虫唾むしずが走る。そういう日は決まって彼の名前をネットで検索する。それっぽいものがヒットしないのを確認して毎回安堵と、それから微かな不満をいだく。
 その日も理不尽な天才生徒を前にしむしゃくしゃして彼の名前を打ち込んだ。これまではなかったはずの、あるサイト。とうとうそのときが来た。音が聞こえるほどに早鐘を打つ胸を押さえる。都会で開催される音楽祭に、彼の名前が小さくも載っていた。
 その名前の持ち主は紛れもなくあのときの男だった。漆黒のスーツを身にまとって、あのときと同じショパンのノクターン第20『遺作』を弾く。それなのにあのときの彼の演奏とも違う曲に聴こえる。さらに洗礼された緻密で美しい旋律。ショパンの繊細な優しさにそっと触れて哀愁を分かち合うような。あの日から今日までずっとピアノと向き合ってきた人の演奏。わたしが届かなかった場所に彼は足をついている。すごすぎて圧倒されて諦めさせられた憎い彼の音が、今度はその心を癒やすなんて、ありえないと思った。でも、彼が、わたしの目指した先に立っていない未来よりずっといいと思えた。
(了)