第38回「小説でもどうぞ」最優秀賞 リング 金銭亀
第38回結果発表
課題
サプライズ!
※応募数263編
リング
金銭亀
金銭亀
今まで仕事を頑張ってきて本当によかった、と思う。おれのこれまでの四、五年間は、きっと今日この日のためにあったのだ。
少しだけよそ行きの、パリッとしたスーツを右手でなでつける。爽やかな布地の感触も、普段よりは心なしか冷たいようだ。そうか、お前も緊張しているんだな――。そんな背広のポケットには、あの人のためのリングが入っている。毅然とした金属光沢を放つ、美しい輪が。
そう。おれは今夜、これまで二年間付き合ってきた彼女に渡したいものがあるのだ。それは、彼女の人生にもおれ自身の人生にも、甚大なインパクトをもたらすはずだ。きっと、これまでの関係ははっきりと変わってしまうだろう。それが少し残念でもあり、同時に嬉しくもあり……。たぬきの尾が胸の奥をくすぐるような照れくささに、思わず頬が緩む。
ああ、レストランが見えてきた。都会の喧騒の中でもひときわ明るく輝く窓の光。磨き抜かれた自動ドアをくぐると、ドアマンが恭しく腰を折った。
「いらっしゃいませ、お客様」
いつもなら、きっと軽く頷いて返すだけだったろう。しかし、今日は特別だった。
「連れが待っているんだ」
さりげなく告げたはずだが、喜びが顔に出ていたのかもしれない。
「いい夜を」
ドアマンが微笑を浮かべる。
おれは、上品なレストラン内をゆっくりと見渡す。いた。
お目当ての彼女が、麗しい相貌に若干の気だるさを含んでワイングラスを揺らしている。脇には、ブランドもののバッグが鎮座していた。
「やあ。待たせたね」
彼女はちらりとこちらに目を向け、微笑んだ。胸がドキドキする。動悸を誤魔化すように、おれは彼女から視線を外して椅子に座った。柔らかな背もたれが、かすかにへこんでおれを受け入れる。
「待ち焦がれたわ。貴方ってほら、何でも遅いんだもの」
軽くからかうような声音にすら、艶やかな色気が宿っていた。おれもまた、冗談っぽく返す。
「丁寧だと言ってくれ。……ボーイ、こっちだ」
おれが給仕に赤ワインを頼むのを待ってから、彼女は言った。
「でもね、あたしもそろそろ変わりたいのよ」
彼女の上目遣いに、おれは覚悟を決める。近頃は、おれを育てた人生の先輩からもかなりせっつかれていた。おれも、もはや若造ではないのだ。自ら行動しなければならない。
「手を出してくれないか」
「何よ、急に」
虚を突かれたように、彼女が大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。こうしていると、まるで子どもみたいなんだからな。
彼女がそろそろと両手を差し出す。その白魚のような細腕に、おれはリングを――。
手錠をかけた。
「鷺野あかり。君をロマンス詐欺の容疑で逮捕する」
彼女――おれがマークしていた結婚詐欺師は、はっと顔を上げた。
「ロマンス詐欺、って……。あたしたち、二年も付き合ってきたじゃない」
「ああ。今まで黙っていて悪かったが、おれは刑事なんだ。これはおとり捜査だったんだよ」
彼女が息をのむ。言葉もない様子である。
おれは、これまでの遍歴を感慨深く振り返っていた。
刑事になって初めての任務として詐欺師の逮捕を命じられたのは、四年前だったっけ。捜査を始めてから彼女を見つけ出すまでに一年半を費やした。そこから交際にこぎつける――新たなカモとして認識されるまで半年。そして、この二年間でようやく逮捕に必要な最低限の証拠類が揃ったのだ。刑事としてのおれを育ててくれた
おれが今日、彼女に渡したかったのは「引導」であった。鷺野あかりの詐欺師人生に、この手でピリオドを打つこと。これでもう、おれも一人前の刑事である。心が躍るのも無理はないだろう。それにしても美人である。もしもおれたちが本当の恋人同士だったら——彼女と実際に結婚できるのだったら、どれほどよかったことだろう。
未練から目を逸らすみたいに、おれは彼女の大きな瞳を見つめた。
――まったく、参ったわ……。
あたしは内心でため息をついた。確かに、あたしは何人もの男を騙してきた結婚詐欺師だ。
でも、今回ばかりは違う。彼は紳士的だった。
だからこそ、今のままではいけないと思ったのだ。あたしもけじめをつけなければと。
「分かったわ。あたしからもサプライズ」
本当は、今日彼と会ったあと警察署に行くつもりだった。だが、手間は省けたようだ。あたしは、くい、と顎で自分の鞄を示す。
「その中に、完全な証拠をまとめてあるから。持っていけばいいわ」
彼の驚いた表情を見て、私は少しだけ満足したのだった。
――結婚詐欺師が恋に落ちるなんて、刑事の推理も追いつかなかったみたいね。
(了)