第39回「小説でもどうぞ」最優秀賞 夜泣き ねこみみ
第39回結果発表
課題
眠り
※応募数355編
夜泣き
ねこみみ
ねこみみ
夢にも思わなかった。まさか自分がこんなに睡眠で悩むことになるなんて。
時計は午前三時を指している。前はこの時間に起きることなんてなかった。眠ることが大好きで、一度寝たら朝までぐっすりだったのに。私は飢えた獣みたいに、ああ、うう、と
赤ん坊は三十分ほど前にミルクを飲んで、機嫌よく寝ている。そろそろ布団に寝かせたい。忍者のように物音を立てずに、そっと立ち上がる。息を殺し、全神経を集中して、静かに赤ん坊を布団へ。慎重に、慎重に……。
「ふぇっ」
背中が着くかつかないかの瞬間に、赤ん坊が声を上げ、体がびくっとなる。目がぱっちり開いて、もぞもぞしだす。
ああ、と思わずため息が漏れる。悪夢だ。また寝かしつけ失敗。この二週間くらい、午前三時にミルクを欲しがって起き、そのまま朝まで眠らないという変なリズムになっている。
あきらめて、赤ん坊を抱っこしてゆらゆらする。いつもなら、これで落ち着いて、また眠ってくれる。ああ、あくびが止まらない。
ところが、今日は寝るどころかどんどん不機嫌になってきた。ぐずぐずしていて、ついにぎゃあぎゃあ泣き出す。うう、泣きたいのは私だよ。
おむつを替えたりミルクを足してみたり、やれることはすべてやった。でも赤ん坊はどこにそんなエネルギーがあるのか、というほど泣き続けている。私は途方に暮れる。ああ、眠たい。もうだめ、寝落ちしそう。
残る力を振り絞り、寝室を出て、リビングを通り抜ける。隣の部屋からは夫の大きないびきが聞こえる。私もあんなふうに眠りをむさぼりたい。
ベランダの戸を開けると、ひんやりして心地いい風が、私たちの頬を撫でた。涼しい空気に触れて、赤ん坊は少し静かになった。
もっと風に当たりたくて、ベランダに出る。今の季節は、気温もちょうどいい。ここでうたた寝したいくらいだ。もし、一人で好きなだけ寝られたら。そんな日はいつやってくるのだろう。
ベランダからの景色は、あまり素敵とは言えない。真向かいに、私たちが住んでいるマンションの別棟が立っていて、眺望はいまいちだ。でも、すぐ近くの川からくる風が気持ちよくて、ここに住むことを決めたのだっけ。
涙が一筋、流れていった。自分で望んだはずの生活なのに、つらくてたまらない。赤ん坊がこんなに眠らないなんて知らなかった。急に、何もかも放り出して、どこかに消えてしまいたい、という考えが頭に浮かぶ。赤ん坊は相変わらず腕の中でぐずぐずしている。
そのときふと、視線を感じた。顔を上げて向かいの棟を見ると、自分と同じくらいの背格好の女性が、同じように赤ん坊を抱いてベランダに出ている。お仲間だろうか。
結構距離があるので、はっきりとしないけれど、三十代くらい。ゆったりした授乳服を着て、ぼさぼさの髪を無造作に肩の上で結んでいる。
つまり、私そっくりの姿だった。なんとなく目鼻立ちも似ていて、怖いくらいそっくり。生気がなくうつろな目で、抱いている赤ん坊をじっと見ている。
しばらくどちらも同じように夜風に吹かれていた。相手は気が付いていないようだったが、私は女性から目が離せなかった。
どのくらい時間が過ぎただろうか、いつの間にか赤ん坊は眠っていた。夜明けが近づいてきたとき、私は気が付いた。女性は泣いていた。
離れているから声は聞こえないけれど、わかった。私も同じだから。
そっと部屋の中に戻り、赤ん坊を抱いたまま壁に寄り掛かった。すると耐え難い眠気が一気に襲ってきて、座り込む。気を失うように眠りに落ちていくのがわかった。
目を覚ますと、もう辺りはすっかり明るくなっている。時計は十時。ああ、よく眠ってすっきりした。ぐんと背伸びをする。
でも、なにか忘れているな。なんだろう。いつの間にかソファに寝ているし。
一瞬時間が止まった気がした。いない。腕の中にいたはずの赤ちゃんがいない。
ぞっとして立ち上がり、家の中を探し回った。赤ん坊も夫もいない。
あわてて記憶をたどるが、覚えているのは抱っこしたまま寝落ちしたことだけだ。
まさか。悪い想像ばかりが頭をよぎる。何が起きたのか。確かに一人になりたいと思っていたけど、うそでしょ。どうしよう。
居ても立っても居られず、リビングの中をぐるぐる回っていたら、テーブルの上のメモが目に入った。ミミズのような夫の字で、
『赤ちゃんは散歩に連れていくよ。お昼までに帰ります。ゆっくり休んでいてください』
と書いてある。私は脱力して、その場にへたり込む。
それから、ゆっくりとベランダに出た。昨夜のことが夢のように感じられた。
女性がいたベランダを見ると、洗濯したばかりらしいベビー服や抱っこひもが、朝の風に揺れている。心の中で、小さく手を振る。
とりあえずほっとして、あくびが出た。昼までもうひと眠りしよう、と私は思った。
(了)