第44回「小説でもどうぞ」最優秀賞 あの子はいつも三号車 永瀬櫻子


第44回結果発表
課題
習慣
※応募数384編

永瀬櫻子
あの子を初めて見たのは、桜の花が散って、鮮やかな緑が芽吹き出した頃。下ろし立ての制服のスカートを、膝が少し見える程度に控えめに短くして、ピカピカのローファーを穿いたあの子は、きっと入学したばかりの高校一年生。肩にかけた鞄の持ち手をぎゅっと握った手から、これから始まる学校生活への期待と不安が入り交じったドキドキが伝わってくる。いつかの私を見ているよう。
ホームに入ってきたのは、七時十四分発下り電車。ラッシュ時間帯だけれど、下り電車の車内は、そんなに混んでいない。ドアが開くと、あの子はしっかりとした足取りで電車に乗り込み、ドア近くの空いている席に座った。キンコンキンコンと音を立てながらドアが閉まると、電車はあの子を乗せて走り出した。いってらっしゃい。
きっと、あの子は真面目な子。電車を待つ列に並びながら、丁寧な字でまとめたノートを読み返している。昨日は、難しそうな数学の問題集を開いていたし、一昨日は、英単語帳に赤いシートを被せて、暗記をしていた。そして、いつも通り、七時十四分発下り電車の三号車に乗っていく。頑張っているんだね。もうすぐ夏休みだね。
夏休みが終わっても、まだ暑い。また、あの子は、教科書やノートを開きながら電車を待ち、七時十四分発下り電車の三号車に乗っていく。あの子の毎朝の習慣は、変わらない。
季節は巡っていく。長い夏が終わって、一瞬で秋が通り過ぎた。冷たい風が吹きつけるようになったホームでも、あの子は教科書を開いて、電車を待っている。
私は、そっと近づいて、教科書を覗き込む。なにこれ。しわしわになったページ、大きく破れた箇所をつなぐセロテープ、あの子の字じゃない汚い言葉の落書き。ねぇ、学校で何かあった? 無理してない?
それでも、あの子は、今日も七時十四分発下り電車の三号車に乗っていった。
ねぇ、どうしたの? 今日はこんなホームの端っこまで来ちゃって。いつも三号車に乗ってるじゃん。あの子がホームの端にある柱にもたれて、ぼんやりと線路を眺めている。駅の時計が、八時を指そうとしている。もうとっくに、七時十四分発下り電車は発車している。無理することないんだよ。学校に行かなくたって、いいんだよ。ねぇ、変なこと、考えてないよね? 私は、あの子をそっと見守ることしかできない。
「まもなく、三番線に、九時十八分発、坂倉行きが、参ります。黄色い点字ブロックの、内側まで、お下がりください」
ホームにアナウンスが入ると、あの子が、もたれていた柱を離れた。そして、黄色い点字ブロックの外側に向かって、歩いていく。待って。ねぇ、ダメだよ。絶対ダメ!
あの子が線路に向かって、一歩踏み出そうとした時、私は、一か八かであの子に体当たりした。そしたら、あの子はよろけて、ホームに尻餅をついた。その直後に、勢いよく電車が入ってきて、徐々に速度を落として、いつもの場所にピタリと止まった。あの子は泣いていた。駅に着いたら、目の前で女子高生が座り込んで泣いているから、電車の車掌さんは驚いたみたい。電車のドアを開けると、慌てて降りてきて、あの子に駆け寄った。
「どうしました? 大丈夫ですか?」
声をかけてもあの子が泣いてばかりだから、車掌さんは駅員さんを呼びに行った。すぐに二人、駅員さんがやってきて、両脇を抱きかかえるようにして、あの子を連れていった。私は、ほっとした。本当にほっとした。あれから、あの子は、しばらく来なかった。
今日、あの子を三年ぶりに見かけた。また今年も桜は咲いた。今度は、パリッとした黒いスーツを着ている。隣にいるのはお母さんかな。お母さんは、ベージュのスーツに身を包んでいる。今日から、大学生なんだね。おめでとう。
「お母さん、私、声が聞こえたの。ここで死のうって思った時」
娘が急に始めた話に、お母さんは戸惑っているようだ。何も言わずに、次の言葉を待っている。
「ダメだよ、絶対ダメ、生きて、って。それで、突然強い風が吹いて、私を押し倒した」
「そう。菜穂ちゃんを救ってくれたのね」
お母さんは、涙ぐんで、娘の肩を抱き寄せた。
昨日ね、私のお母さんもここに来たんだ。なぜなら、私の命日だから。白い花をそっと置いて、手を合わせてた。七年経った今も、お母さんはずっと暗い顔をしてる。私のお葬式では、みんな泣いてた。お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも、幼馴染みの凛ちゃんや圭太くんも、中学で仲が良かったクラスメイトたちも、近所のパン屋のおばさんも。こんなに、私のことを想ってくれている人が、たくさんいたのにね。毎日、同じ学校生活を繰り返すうちに、見えなくなっちゃったんだ。「ブス」とか、「キモイ」とか、「キエロ」とか、汚い言葉で頭の中がいっぱいになっちゃって、逆に心はからっぽになった。もう、この世には何もないって、思っちゃったんだ。そういう子が、今たくさんいるんだってね。
「私、大学で勉強して、カウンセラーになる。私も誰かを救いたい、って思うから」
お母さんは、娘の肩を抱きながら、うんうんと頷いて聞いている。電車が到着した。八時五分発上り電車。あの子が、お母さんと一緒に三号車に乗り込む。ドアがキンコンキンコンと音を立てながら閉まり、電車が走り出した。
生きてさえいれば、どんなこともできるよ。夢に向かって歩み始めたあの子。どうか、生き抜いて。
(了)