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第44回「小説でもどうぞ」佳作 コーヒーが、買えない 渋川九里

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
コーヒーが、買えない 
渋川九里

 レジで精算を済ませ、カップを受け取る。マシンの扉を開けてカップをセットし、ボタンを押す。ガリガリと豆を砕く音がして、数秒待つと細い管からプシューと湯気が吹き出し、ポタポタッと数滴、しずくが落ちる。やがて滑らかな線のように液体が流れ出てカップにコーヒーが満たされる。その流れがとまって数滴落ちた後、ピピっと完了の合図が鳴る。扉を開けてカップを取り出し、蓋の飲み口部分がカップの継ぎ目に重ならないように気を付けて蓋をする。そしてコンビニを出る。
 これが伊藤悟の出勤前の日課だった。
 ある日、悟がいつものようにコンビニに入り、入口近くのコーヒーマシンに目を向けると『故障中』という張り紙が貼られていた。今日はツイてないな、と悟は思いながら会社に向かった。
 翌日、コンビニの前まで来た悟はガラス越しにコーヒーマシンを見た。『故障中』の張り紙はもうない。軽くうなずいて店内に入り、レジに並んだ。自分の番になり、「コーヒーをレギュラーサイズで」と告げる。アルバイト風の店員が、はい、と返事をしながらいつもの方向に手を伸ばした。そしてすぐに「あれ?」と小さな声を上げた。
 店員はそのまま少し身体を屈めて辺りに手を這わせたり、のぞき込んだりしている。そして隣のレジの店員に声をかけた。隣の店員は首を横に振る。店員はカウンターから出てマシンの方まで行って首をかしげながら戻ってきた。
「すみません。ただいまカップを切らしておりまして……」
 悟は、そんなことあるのか!? と思いながら、黙って踵を返し出口に向かった。
 また翌日、悟はマシンの傍らにカップが大量に設置してあるのを確認して店内に入った。レジでコーヒーを注文し、カップを受け取る。今日は問題なく手に入りそうだ。自然と口の端が少し上がった。
 マシンの前には三人の中年女性がいた。彼女たちの手元を見ると十個くらいのカップを重ねて持っている。おしゃべりしながら出来上がったコーヒーを紙袋に入れては、マシンに次のカップをセットする。一杯くらい先に入れさせてくれてもよさそうなものだが、背後の悟に気づく様子は微塵もない。悟は、右足のかかとをトントンと鳴らしながら店内の時計を見た。まもなく始業時間だ。
 あら? という女性の声が耳に入り、注意がマシンに引き戻された。一人が店員を大きな声で呼んでいる。どうやらコーヒー豆が切れたらしい。だが、レジは長蛇の列で店員は「少々お待ちください」というだけで手一杯だ。悟はため息をついて空のままのカップを片手にコンビニを出た。
 そして翌日、今日こそは、と気合を入れて悟は家を出た。コンビニに到着し、これまでのチェックポイントに目を配った。マシンに張り紙はない。カップは設置されている。コーヒーマシンを占領しそうな集団もいない。コーヒーマシンのてっぺんには豆が大量に入っている。レジに並ぶ。順番が来た。
「コーヒーをレギュラーサイズで」
 そう告げると店員がカップを悟に渡した。カップを手にマシンの前に移動する。誰もいない。
 ――よし! これでやっとコーヒーが手に入る!
 マシンの扉に手をかけ、カップを所定の位置に置いて、ボタンを押そうとした。その瞬間、店内の電気がふっと消えた。もちろんコーヒーマシンも使えない。
 次々と客が外へ出てスマホで情報を検索している。悟もその流れにのって店を出た。高校生らしき男の子が、近くで断線が起こり、この地域一帯が停電になったことを大きな声で知らせてくれた。店内から店長らしき人が出てきて、しばらく営業ができないと頭を下げた。ツイてないにもほどがある、と悟は思った。
 そして翌日もまた悟はコンビニに行き、コーヒーを買うことを試みた。だが、叶わなかった。マシンのボタンを押そうとしたその瞬間、暴走した車がコンビニに突っ込み、ガラス窓を破ってコーヒーマシンをなぎ倒したのだ。悟は間一髪で脇に避け、無事だった。ただ、コーヒー買いたいだけなのに、と悟は思った。
 翌日から悟はコーヒーを買うことをやめた。最初は口さびしかったが、慣れれば問題ない。やがてその習慣自体を忘れていった。しばらくして悟は人事異動で他の事業所に移ることになった。
 数年後、悟は出張で久々に以前の事業所にやってきた。最寄り駅から会社までの道のりを懐かしい気持ちで歩いていると、あのコンビニが目に留まった。スマホを取り出し時計を見る。少し寄るくらいなら時間がありそうだ。
 店内に入るとレイアウトは少し変わっていた。コーヒーマシンは二台に増えている。悟は思いついてレジに向かい、コーヒーを注文した。店員からカップを受け取ると、マシンの前にいきカップをセットした。
 ――そういや異動直前ここでいろいろあったよなぁ……。
 当時のことを思い出しながら悟はボタンに指をあてた。

 その後、悟は自分がどうなったか、覚えていない。ただ遠ざかる意識の中で、コーヒー買うってこんなリスク高いことだったっけ? と考えていた。
 その日のニュースは、一軒のコンビニが近くで行われていたガス管工事の爆発に巻き込まれて吹き飛んだ話で持ちきりだった。
(了)