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第44回「小説でもどうぞ」佳作 希望的観測 香久山ゆみ

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小説・シナリオ
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小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
希望的観測 
香久山ゆみ

 ぼーっとしてたら、ふとした拍子に顔を上げてしまう。
 いつものくせだ。同じような人はどれくらいいるだろうか。例えば、ぼーっと風呂に入っていて、頭を流している時に、おやっとなる。あれ、もう頭を洗ったっけ? 洗って泡を流し終えたところなのか、これから洗おうと髪を濡らしているところなのか。毎日の習慣で無意識でも体が動くから、本当に思い出せない。洗った気はする。いやでも昨日の記憶かも。しばらく真剣に考えるけど、どうしても思い出せず、仕方ないのでもう一度(?)頭を洗う。気をつけなきゃいけないのは、リトライ時でさえぼーっとしていたら、また洗ったかどうか分からなくなってしまう。
 そんな僕だから、今でもたまに夜空を見上げてしまうのだ。
 そこに「月」は浮かんでいないのに。
 月が消えて、もう十五年経つ。
 十五年前のある夜、月の表面に大きなヒビが入って、そこから数日であっという間にパカリと月は二つに割れて、さらに四つになり、八つになったところでバラバラと砕け散り、宇宙の芥となって消えてしまった。
 もちろん、当初はえらい騒ぎだった。
 月がなくなったことで、地球にどのような影響が出るのか、よく分かっていなかったから。まあ、それもおかしな話だが。地球に隕石が衝突するかもしれないというニュースは過去に何度か見掛けたけれど、月に隕石が衝突して消滅するかもしれないとは想定もしていなかったなんて(実際にはそういう研究をしている人もいたのかもしれないが、僕の目に留まるほど話題になったことはない)。
 数ヶ月の間はわあわあと世の中騒いでいたけれど、結論としては、まあ大丈夫だろってことになった。
 今ではほとんどの国が太陽暦を採用していて、太陰暦は使われていないし。実際、旧暦の行事といえば、桃の節句の三月初旬にはまだ桃の花は咲いていないし、七夕は梅雨時期で星空は見えないなど、現代の季節感からはずれているし。
 むしろ潮汐がなくなることで、安定して航海や漁ができるようになるのではないか。バイオリズムへの影響もなくなり、生物の情緒が安定するようになるのではないか。なんて肯定的に捉える向きもあった。
 しかし、多くの人は月の消失を嘆き(大方センチメンタルな理由からだと思う)、一部では人工的に月を再構築しようという機運もあったが、技術面と財政面から現在に至るまで実現には至っていない。
 そんなこんなで、月がなくなってから早十五年経った。
 生活に大きな影響はない。
 月のない生活にも慣れた。……といいたいところだが、ふとした瞬間に、夜空を見上げてしまう。そうして月のない空間を見て、なんだか自分の心にもぽっかり穴が開いたような気がするのだ。
 地球に生命が誕生してから三十五億年間ずっと月を見上げてきたのだから、生物のDNAには月の存在が刻まれているにちがいない。
 そう思うのは古い人間だけで、今年高校生になる子たちは生まれた時からすでに月のない世界で育った。学校の授業などで資料映像として月を見るが、特に何の感慨もないらしい。彼らに月の話をしても、まるで昔話を聞くみたいにきょとんとしているし、月を主題に描く映画や小説などは軒並み「SF」として扱われているようである。
 彼らは、けっして我々と同じようには空を見上げない。
 それで生きるになんら支障はない。
 これからどんどん月がなくて当たり前の世代が増えてくるだろう。
 だから。
 僕が月を破壊してしまったのは、罪ともいえないでしょう。
 人類が活用可能な資源はすでに月には残っていないということは、二十年前の研究で解明済みです。生活への影響もない。メンタル面でも、総体としてみれば大きな変化もない。
 それに、悪気があって月を射たわけじゃあない。
 僕は頼まれただけなんです。誰に? ロボットに。だって、人間は人間を雇ってくれないじゃないですか。簡単に稼げる仕事だと聞いて応募しました。座標を合わせて発射するだけだと。隕石が飛んでくる可能性がある座標だと説明を受けました。肉眼では見えない距離なので、実際にどれくらい命中していたのかは知りません。ただ、指示通り延々と発射し続けました。その内の一発が月に命中したのです。ええ、僕は間違いなく指示書通りの座標を指定しました。なら、ロボットが指示を間違えたのか? いいえ、ロボットは間違えないでしょうね。はは、いえ、ごほん、僕もおかしいとは思っていましたよ。こんな仕事は本来ロボットの方が向いているはずですから。なのに、なぜ人間を雇ったのか? 知りません。大方、ロボット三原則にでも抵触するからじゃないですか。あ、いえ、それもあとからそう思っただけです。人間ですから、そんなに深く考えて仕事していません。習慣で手を動かしていただけです。――雇い主は「人間は案外しぶといんだな」と笑っているように見えました。そうですね、ロボットには感情はありません。ただ、そう見えただけです。
(了)