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第44回「小説でもどうぞ」佳作 世界で一冊だけの本 千織

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小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
世界で一冊だけの本 
千織

 八千代の日常のささやかな楽しみは、仕事帰りに本屋に寄ることだった。本棚を見渡していると『世界で一冊だけの本』という平積みの冊子が目に入った。帯の説明曰く、見た目は本だが中身は白紙で、ここに自ら物語を書くことで世界で一冊だけの本が出来上がる……というものらしい。八千代は高校生の時からこれまでの三十年間、日記を書くことが習慣だった。折角なので、この本を日記代わりにすることにした。
 八千代は帰宅し、独り、夕食と入浴を済ませた。そして、テーブルの上をいそいそと片付け、姿勢を正してあの本の表紙と向き合うように座った。
 日記には、嬉しかったことを書くようにしている。今日であれば、中途採用の女の子の指導が上手くいったことだ。彼女は、八千代の説明がすごくわかりやすいと感激した。
 それを書こうとして一ページ目を開くと、そこにはすでに、言葉が書かれていた。

 ――あなたが得た美しいものを、噛みしめてください。

 存外、可愛いらしい文字だった。インクの裏写りもあり、手書きのように見える。考案者からのメッセージだろうか。不可解だったが良い言葉だったので、八千代はその言葉に従うことにした。
 今日出会った美しいものと言えば、彼女の心だろう。彼女には持病があった。やや遠くの大きな病院でなくては治療ができない。それでも働くのが好きで、この会社で頑張りたいと言う。その健気さに、八千代は胸が詰まった。

 ――あの子の人生が良いものでありますように。

 いざとなると書けたのはたったこの一文。彼女の幸せな瞬間が、一つでも多くあってほしいという願いだけだった。

   ♢

 翌日は、珍しく残業になった。明日以降の体力のことも考えると、すぐに横になりたい気持ちもあったが、せめて一行だけでもと、あの本を手に取った。
 自然と、彼女の笑い声が思い出される。ここ数日、彼女は体調不良だったので、笑顔が見られてホッとしたのだ。

 ――彼女が、楽しそうに笑っていて良かった。

 彼女の様子を思い浮かべると、自分も元気が出たような気がした。

   ♢

 翌日、彼女は具合が悪いと早退した。上司から「あの子は根をつめやすいから気をつけて」と釘をさされたが、もちろん無理はさせていない。ただ、このまま彼女が体調を理由に、会社を休みがちになるのではないかと心配になった。
 夜になり、八千代は本を書いた。

 ――彼女の体調が良くなりますように。

 彼女の生真面目さが体の負担になっているのではと、気がかりで仕方がなかった。自分の本のはずなのに、書いているのは彼女のことばかりだ。

   ♢

 翌日、出勤してきた彼女は眼帯をしていた。どうしたのかと訊くと、ものもらいだと言う。少し安心はしたが、免疫力が下がっているのではないかという心配は残った。
 夜、八千代は本を書いた。

 ――彼女に、ほんの少しでいいから、運が味方をしますように。

 八千代の心は彼女にとらわれていた。
 八千代は昔、中学校の先生をしていた。大学を卒業してからたった五年間しか教職に就いていないのに、教え子に癌が見つかったり、保護者が自死をしたりと、重い出来事が続いた。こんな時こそ頼りになる先生でありたいと思っていたが、自らの心臓にも病が見つかり、体力勝負の教職は断念せざるをえなかった。
 退職後は、心臓に負担がかからないよう日常を穏やかに過ごしている。定期的な通院と毎日の服薬は欠かさない。ただ、時々八千代はそんな刺激のない人生に嫌気がさしていて、彼女も同じように陰鬱な日々を送っていると思うと不憫だった。
 不意に、ぽたりと涙が本に落ちた。自分で書いた「運」の文字が滲んでいく。
 不憫なのは、彼女のことではない。自分のことだ。憧れた教職の夢は破れ、あれだけ学んだはずなのに、目の前の彼女一人に何もしてやれない。
 何が『世界に一冊だけの本』だ。私の本には何の価値もない。八千代は乱暴に本を閉じ、引き出しにしまった。

   ♢

 翌日の昼休み、八千代は彼女からランチに誘われ、近くのレストランに足を運んだ。
「持病が悪化しちゃって、仕事、辞めようと思ってるんです。すみません、せっかくいろいろ教えてくれたのに」
 彼女の目の下のくまは、明らかに濃くなっていた。
「そう……とても残念だよ。でも体が一番だから。若いし、先が長いんだからね」
「先ですか? 私もう二十七歳ですよ?」
「二十代なんて産まれたてだよ。まだ何でもできる」
 産まれたて!と彼女は繰り返して、キャッキャと笑った。
「八千代さんに会えてホントに良かったです。仕事辞めるのが寂しいなんて、思ったの初めてなんで。これ、もらってください」
 彼女はお別れのプレゼントとメッセージカードを取り出した。そしてまた、眩しく笑った――。
 夜、八千代は改めて一ページ目を開いた。あの、可愛いらしい文字が現れる。

 ――あなたが得た美しいものを、噛みしめてください。

 八千代は、本に彼女の似顔絵を描いた。これまで出会ってきた子どもたちの笑顔と重なる。先生の仕事は、子どもたちが羽ばたいていくのを見送ることだが、八千代もまた見送られた。

 お大事に。先生はまだ若いのだから――。

 退職する時、保護者からそう言われた。今ならその言葉の意味がわかる。
 出会いを喜び、心を込めて見送ろう。私も、彼女も、みんなみんな、精一杯生きているのだ。八千代は、この本を他人だらけにすることに決めた。
 あのメッセージの文字は、彼女の文字に似て優しく、八千代を静かに励ましていた。
(了)