第44回「小説でもどうぞ」佳作 フレンド・オブ・ウェンズデー 沖田みぞれ


第44回結果発表
課 題
習慣
※応募数384編

沖田みぞれ
毎週水曜の夕方は、地域の防犯パトロールの時間だ。
閉めっぱなしのカーテンの隙間から差し込んでくる光が赤く染まって、私は朝から着たままのパジャマから着替えて家を出た。氏神様を祀った小さな神社の隣にある集会所には、すでにいつもの顔ぶれが揃っていた。地区の区長さんと、代々続く地主の家のお嫁さんと、四丁目の青果店の老夫婦。私をいれて、参加するのはいつもこのたった五人。今時、積極的に自治会の活動をする人なんて、どこもこんなものなのだろう。私だってこの町に引っ越してきた当初は、まるで協力しなかった。
区長さんから反射ベストを受け取り身につけると、私は他のメンバーと軽く挨拶代わりの雑談をしてから別れ、いつものコースを歩き始めた。昼とも夜ともつかない、不思議な色の空に浮かぶ田舎の町には、不審者どころかすれ違う人もいない。しかし、三丁目を過ぎたところで、角のピアノ教室からひとりの少年が姿を現す。
「おばさん、こんにちは!」
「こんにちは、蓮くん」
楽譜ケースをピカピカの黒いランドセルに仕舞いながら、蓮くんが駆け寄ってくる。私は上着のポケットからアポロチョコの箱をふたつ取り出して、ひとつを蓮くんに手渡した。蓮くんは行儀よくお礼を言うと、箱を開けて中のチョコレートをいくつか手のひらに転がした。人類初の月面着陸に成功した宇宙船を模しているらしいそれを、もの珍しげにしばらく眺めると、ぽいっと口に放り込む。黒目がちの瞳が、キラキラと瞬いた。
「今週はどんなことがあった?」
いつもと同じことを尋ねる私に、蓮くんは木曜日から指折り数えながら話し始める。六年生を送る会で劇をした話、隣県の博物館に恐竜の化石を見に行った話、図書館で借りた面白いSF小説の話。私にはあまりに縁遠く、別世界の出来事を聞いているようだ。それでも、蓮くんが一生懸命に話してくれるのが嬉しくて、私は相槌を打ちながら真剣に耳を傾ける。
そうして十分ちょっと歩くと、満開の白い花が薄闇を照らすように光る、大きなコブシの木の前で道が二手に分かれた。右が私のパトロールコースで、左は蓮くんの家へと続いている。
「またね」
私が手を振ると、いつもなら「ばいばーい」と手を振り返して駆けていく蓮くんは、困ったように眉を下げてじっと私を見た。何かを言おうとして、やっぱりやめてを数度繰り返した後、意を決したように口を開く。
「僕、今日でおばさんとお別れなんだ」
「……そうなんだ」
私は「それは寂しくなるね」と続けようとして、言葉にならなかった。
結婚して、この町に引っ越してきて、七年たってようやく子供ができて、私は死産した。
家に閉じこもるようになった私に頭を悩ませた夫は、たまたま舞い込んできた防犯パトロール参加者募集のお知らせに、少しでも気晴らしになればと勝手に参加届を出した。それからというもの、水曜日が来るのが憂鬱で仕方なかった。——蓮くんと出会うまでは。
押し黙る私に、蓮くんが一歩近づく。
「いつもお菓子、ありがとうございました。お礼におばさんに、僕の秘密を教えてあげる」
そうして背伸びをして、両手を口元に持っていき内緒話をするポーズをとる。唐突なそれに、私は少し戸惑いながらもしゃがんで蓮くんの口元に耳を近づけた。
「実は僕、十年後の未来から来たんだ。……みんなには遠くに引っ越すって言ってるんだけど、本当は未来に帰るんだよ」
ひそひそ声が楽しげに告げたのは、そんな突拍子もないセリフだった。
私は間抜けに口を半開きにして固まった。何と返事をするべきなのかがわからなかった。蓮くんは冗談を言って人を楽しませたり、反応を面白がったりするようなタイプじゃない。なのにどうして急にこんな〝秘密〟を打ち明けたのか、その意図が全く読めなかった。
困惑する私に、蓮くんは悪戯が成功したような笑みを浮かべて続ける。
「十年後も、僕とおばさんは水曜日に会う友達なんだ。でも、十年後は僕らだけじゃなくて、おばさんの子供もいるんだよ。いつも三人で、一緒にパトロールしてるんだ」
ああ、なるほど。そういうことか。
私はこわばっていた全身から力が抜けていくのを感じた。
「そっか……。じゃあ、十年後にまた会おうね」
「うん、またね」
蓮くんは「ばいばーい」と大きく手を振ると、家へと続く道を駆けて行った。小さくなっていくその背中が夕暮れに消えるまで、私は手を振り続けた。
私は今日蓮くんから聞くより前に、蓮くんが遠くへ引っ越すことを知っていた。代々続く地主の家のお嫁さんはさすが情報通で、ひと月以上も前に私にそのことを教えてくれたのだ。蓮くんのご両親はとても教育熱心な人たちで、名門私立中学の受験に備えて、低学年の今のうちから都会に引っ越し、塾通いを始めるのだそうだ。
でも、もしかしたら、これは蓮くんの言う通り表向きに作られた話で、やっぱり蓮くん一家は未来に帰るのかも——、なんてSFチックなことを考えて、私は苦笑する。
お菓子のお礼に渡された、優しい秘密の答え合わせは十年後。
それまでは、未来の水曜日の友達のために、パトロールを続けよう。
(了)