公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第44回「小説でもどうぞ」佳作 朝の習慣 諸井佳文

タグ
小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
朝の習慣 
諸井佳文

 朝起きたらまずお湯を沸かす。以前ならその頃に母が起きてきて沸いたお湯をちょっと冷まして白湯を飲む。それが母の習慣だった。けれども最近はなかなか起きてこない。わたしは二人分の朝ご飯を作る。だいたい卵焼きとおみそ汁だ。それにちょっと野菜も。以前はトマトを切っていたが、最近はトマトがバカ高いので、安かったブロッコリーをレンジでチンしてドレッシングをかける。ブロッコリーを茹でるのではなくレンジでチンするのは母がテレビで見てわたしに教えてくれたことだ。母は年の割に常識にとらわれなくて電気機器を活用していろいろ時短をする。そんな進取の気性に富んだ母がちょっと自慢のタネだった。
「お母さん、ご飯が出来たよ」
 母を起こしにいくと、母のベッドは空っぽだ。なにかおかしい。やっと気がついた。母は去年の暮れに突然亡くなったのだ。いつも朝は忘れてしまい、二人分の朝食を作ってしまう。
 テレビを見ながら食事をし、世界の情勢を勉強する。その後はBSの旅番組をみてしまう。今日こそは職安に行かなければいけないのに。母が生きている時は母の年金で食べさせてもらっていた。これからはそうはいかない。そうは思うのだが、働くのは辛い。
 以前はスーパーで働いていたが、時々おかしなお客がくる。ある客のTシャツに『KILL YOU』と書いてあった。その客はその文字をわたしにわかるようにわざわざ胸をはってみせ不気味な笑いをうかべた。わたしはとっさに殺されると思った。バックヤードに駆け込んだところで気を失った。気がついたら病院のベッドのうえだった。わたしはもうあんな場所では働けないと思った。わたしは退職した。働かなければならないとはわかっている。けれども世の中にはいろいろなひとがいる。怖い。なるべくひとと関わり合わないような仕事をしたい。職安のひとに相談しても「そんな仕事はなかなかないですねぇ」と親身になってくれない。わたしが働かなくなってから五年になる。
 玄関のチャイムが鳴った。そうっと外をうかがう。得体の知れない訪問販売がよく来るのでむやみに出ていけない。今日の訪問者は妹の美津子だった。美津子は結婚していてわりと近所に住んでいる。一昨日電話で米代がないと愚痴をこぼしたので助けにきてくれたらしい。
「お姉ちゃん、おはよう。ご飯、ちゃんと食べた?」
 よく見ると美津子の後ろに見知らぬ女性が立っている。
「多津子さん、初めまして。笹口ともうします」
 笹口と名乗った女性はわたしより若そうだった。
「笹口さんは民生委員をやっているの」
 美津子と笹口さんを居間に招き入れてお茶を出す。
「お姉ちゃんのことを笹口さんに相談したの。一人暮らしだけれども働けないことを。わたしもいつまでも援助していけないし……」
 笹口さんはにっこり笑った。
「大丈夫ですよ、多津子さん。多津子さんのような人はいっぱいいますからね」
 笹口さんは鞄のなかからいろいろな冊子を取りだし、説明を始めた。それによるとわたしは六十三歳なので老齢年金の前倒しをするのがいいらしい。
「多津子さんは二十年くらい厚生年金をかけているので、贅沢をしなければやっていけますよ」
 笹口さんはいろいろ説明をしたが、わたしにはなにがなんだかよくわからなかった。全部笹口さんに任せることにした。
 ふたりが去ってわたしはお腹がすいていることに気がついた。朝に二人分の朝食を作ってしまったので、母の分を温めて食べた。ふと気がつくと家中いろんなもので散らかっていた。笹口さんはどう思っただろう? 急に恥ずかしくなって掃除をしなければと思った。でもどこから手をつけたらいいのかわからない。とりあえずまた笹口さんが来る時のために玄関から居間の間をなんとかしようと思った。玄関には母が使っていた靴がおいてあった。片付けようと思ったが、出来なかった。もう履くひとはいない、古くて擦り切れた靴だ。母はもういない。火葬場で骨を拾ってお墓に納骨した。けれども母のものを処分することはわたしには出来なかった。掃除ははかどらず、夜になってもあまりやる前と変わりはなかった。
 夜食はカップラーメンだった。次の朝が来てわたしはまた二人分の昼食を作った。母の部屋に行って空っぽのベッドを見つめた。そして母が死んだことを思い出した。
(了)