第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 小説家 山本絢


第44回結果発表
課 題
習慣
※応募数384編
選外佳作
小説家 山本絢
小説家 山本絢
平日の朝、木村舞は朝食を作り、ゴミ出しをして、夫の秋良と小学三年生の翔平を送り出してから、洗濯物をベランダに干して、3LDKのマンションの掃除にとりかかった。キッチンのシンクにたまった食器は、食器洗浄機にかけた。
三月だというのに、まだ真冬の寒さで、舞はリビングの暖房をつけた。十畳ほどの広さのリビングの端に、舞のワークスペースがある。ニトリで買った机と腰痛対策のハーマンミラーのチェア。
リビングの片隅で、今日も舞は机に向かう。小説の続きを書くために。
翔平を妊娠して、退職と同時に始めた公募生活は、今年で十年目に突入した。
十年間、努力に努力したが、舞はデビューすらできなかった。
短大を卒業して、派遣社員として、各企業を転々としていた先で、舞は秋良と出会い、二十七歳で結婚をして、マンションから二駅隣の警備会社で、事務員として働き始めた。二十九歳で妊娠して、退職した舞は、有り余る時間を前に、コツコツと書きためていた小説を手直しして、公募ガイドに掲載されている新人賞に投稿し始めた。
つわりの時期は休んでいたが、舞は臨月まで小説の手直しを続けた。出産後も翔平が昼寝をしている合間を見計い、パソコンに向かって短編小説を仕上げた。
落選、落選、落選、かろうじて一次選考通過、また落選。どんなに落選が続いても、舞は小説を書くことをやめなかった。自分が何者かになるチャンスはこれしかない。小説がなかったら、ただの専業主婦として、人生が終わってしまう。焦燥感の中で、純愛や青春や復讐劇を書いた。一人称、三人称、書簡形式、小説にはあらゆる形があって、あらゆる人生があった。
「お母さんはいつも作文を書いているね」
ふいに夕食の席で、翔平に言われた。まだ思春期前のあどけない顔で。
「作文じゃなくて、小説だけどね」
千切りキャベツを添えた豚の生姜焼きと、きのこの味噌汁と、ポテトサラダと納豆とライス。翔平の隣で秋良が、小鉢を持ち、納豆をしつこくかき混ぜていた。
「お母さんの小説、けっこう面白いよ。お前も読んでみたら」
「小説なんか、興味ないや」
これからの子供たちは、益々、本を読まなくなるだろう。家に友達を呼んでもiPadやswitchで遊んでばかりいる。
それでも小説は、人間が生きていくために必要なものだと、舞は信じていた。小説がなかったら、映画やドラマはどうなるだろう。小説が舞台劇や漫画化されることもある。それだけではない。小説には人を救う力がある。
舞の生まれ育った環境は悲惨だった。母は生後すぐに亡くなり、父一人、子一人で生活していくことになった。父はだらしない人間だった。住んでいる市営住宅に、つきあっている女性を平気で連れ込み、舞がいるのにいちゃいちゃして、部屋にこもっていた。連れてこられる女性もレベルが低く、幼い舞を邪魔者扱いした。
舞は放課後や土日は図書館に行き、片っ端から小説を読んだ。楽しかった。父が教えてくれない、生きていくために必要な知恵が、物語の中に詰まっていた。煌めく宝石のように。一粒、一粒、拾い上げて、舞は胸の内にしまいこんだ。
舞は高校を卒業して親戚の叔父の家に下宿して、短大を卒業した。安い給料で一人暮らしは大変だった。通勤の車内で文庫本を読むのが、舞の習慣になった。そして時々、パソコンで小説を書いた。誰に読ませるあてのない、自己満足の趣味だった。
半年前に出した新人賞の一次選考通過者が発表された文芸誌を、舞はパソコンの横に置いて、見事にかすりもしなかった現実を前に、舞は諦めようか悩み、悩みながら、昨日まで書いた小説の読み直しを始めた。変換ミスを発見した。コーヒーを飲めないはずの主人公が、なぜかスタバでコーヒーを飲んでいる場面では、笑みがこぼれた。
原稿を推敲していると、十二時になった。
キッチンで卵を落とした味噌ラーメンを作り、ダイニングで食べて、少し休憩してから、机に戻り、小説の続きを書き始めた。
「ただいま、お母さん、今日も小説を書いているの」
午後三時。ランドセルを背負った翔平が、机に向かっている舞に言い放った。
「まあね。書かないと、気分が落ち着かないのよ」
小説を書くことは舞の習慣になった。歯磨きと同じ。
「すごいね」
翔平がぼそりと呟いた。かすかに濡れた双眸で舞を見つめる。
「お父さんが言ってた。お母さんはすごいって。散々、新人賞に落ちたのに諦めずに十年も書き続けている。お前も夢を見つけたら、あれくらい努力しなさいって」
温かい飲み物が胃に落ちたような感覚に、舞の毛穴は逆立った。
「お母さんの夢、きっと叶うね」
舞はチェアから立ち上がり、人差し指で目じりを拭った。純粋な翔平の視線に、ささくれ立った心が癒やされた。
「そうだね。おやつにするから手を洗いなさい」
翔平が笑顔でランドセルをソファに置いて、洗面台に向かった。子供は親を見て育つ。続けてよかった。舞は胸の内で呟き、マウスをクリックして、書きかけの小説を保存した。
(了)