第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 父とタバコと缶コーヒー 橘ゆず


第44回結果発表
課 題
習慣
※応募数384編
選外佳作
父とタバコと缶コーヒー 橘ゆず
父とタバコと缶コーヒー 橘ゆず
僕は毎朝コンビニに寄る。たった一人の彼女に会うために。
「いらっしゃいませ」
彼女は決してとまらぬことなくレジを打つ。言い淀むこともなく、客にレジ袋、はし、温めの有無を確認し、スマイルを提供し、公共料金の支払い、キャッシュレス決済にも滞りなく対応する。無駄がない。常に口角が上がっている。
彼女はその道を極めていた。
高めにくくったポニーテールが軽く揺れる。目元が僕に似ていることが誇らしい。化粧は薄いが、顔立ちがくっきりしているので、表情の豊かさをより際立たせていた。
いや、決して僕はストーカーではない。五十も過ぎたおじさんが、そんなことは断じてしない。僕は、三歳の頃に別れた妻との娘に会いに来ていた。明菜という。三歳以降の娘の姿は、写真でしか知らない。明菜から会いたいと言ってくれたこともあったが、別れた妻がどうしても嫌がった。元妻は別れた後に再婚した。だから、明菜には継父がいるはずだ。だから、あえて積極的に連絡を取ろうとは思わなかった。新しい父親がいるのだからうまくいかなくなったらどうする、と自分に言い聞かせた。悔しいくせに。
つい最近、このコンビニを通りがかり、名札と顏を見て、何度も通っているうちに確信した。この子は僕の娘だ。まさかこんな通勤途中で明菜に会えると思わず、僕は飛び上がりたいほど嬉しくなった。今年は高校最後の春休み。学校が始まるまでのバイトなのか、春休みになってから毎日朝の勤務帯で見かけた。
二歳のイヤイヤ期には、コンビニの床でひっくり返ってチョコをねだっていた明菜が、今や立派にコンビニで店員をしているとは。子の成長とは驚くものだ。しかし、お父さんだぞなんて声をかけて、もし嫌がられて勤務時間でも変えられたらもう会うことは叶わなくなるだろう。だから、何食わぬ顔で、すみません、と今日もレジに声をかける。
タバコとコーヒー、朝刊。それが毎朝のオーダーだ。
タバコの種類も毎回同じ。三十年以上愛用している。明菜が小さい頃にも吸っていたので、よく元奥さんに怒られていた。明菜は今はきはきと対応してくれるが、たまに変化球として、公共料金の支払いや切手の購入なども試みたが、どれも完璧に対応してくれた。お姉さん、早いねと褒めると、あっさりと営業スマイルで「ありがとうございます!」と言われてしまった。連絡を取りたいが、コンビニバイトにいきなり連絡先を渡すのはあまりにも危険だ。しかし、このまま何食わぬ顏のままコンビニに通うのも、いつか思い余って暴露してしまいそうでおそろしい。何か会話のきっかけはないものかと探しあぐねていたが、そのきっかけは思わぬところからやってきた。
ある朝、うっかりしていてレジに財布を置き忘れた。その日は久しぶりにスマホの電子決済のチャージを忘れ、財布に入った現金を使ったんだった。
慌てて店に戻り、レジにいた我が娘に声をかける。
「あの、さ、財布忘れてませんでしたか」
息の乱れを整えそこねた。歳だろうか。
「ああ、こちらのお財布ですか?」店の奥にあった茶色い皮財布を持ってくる。
だいぶ使い込まれてくたくたなのがこんな時にいささか恥ずかしい。
「それです!」
「お名前、日下さんでお間違いありませんか?」
と中身を確認させてもらう。見つかった嬉しさのあまり、はい、ありがとうございますと勢いよく言った。そして免許証やクレジットカードなどがあるのを確認し(もともと現金は五千円くらいしか入っていない)、安堵のため息をついた。
ほっとして、店を後にしようとした。その時。
「……お酒とたばこは控えめにね」
そ、そりゃあ毎日同じものを買ってるんだものな。覚えてるよな。うん。
「おとうさん」
あわわとしながら、僕は次の瞬間に首を何度も頷かせた。
「お父さんだ。明菜、久しぶりだな」
「財布をお渡しする前に失礼ながら確認させていただきました」
丁寧な敬語の笑顔に、親しみがじんわりと混ざっている。おとうさん。おとうさん。はじめて口にした言葉を聞く前に別れてしまったから、初めて聞いたのだ、娘の「おとうさん」の甘ったるさを。
「連絡先、聞いていいかな?」
五十のおじさん、だいぶ勇気を振り絞ったが、明菜は「わたしはここに店員として来ているから」と真っすぐに目を見て言った。また、店に来ておとうさん。その綺麗な声が胸にすっと届いて目頭が熱くなった。明菜はうまくおうちでやっているのか、継父さんとは仲良くやっているのか、お母さんは元気か。頭の中でセリフがぐるぐるしているうちに、明菜は奥から店長に呼ばれてしまった。
「ありがとうございました」
なかなかこの習慣も悪くない。いや、タバコはそろそろやめるか。
(了)