第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 異類非婚姻譚 津月いのり


第44回結果発表
課 題
習慣
※応募数384編
選外佳作
異類非婚姻譚 津月いのり
異類非婚姻譚 津月いのり
毎日、夜の十二時に電話をする習慣がある。
私の習慣ではない。私が一人暮らしているアパートの隣人のことだ。顔を合わせた時に挨拶をする程度で、名前も知らない。髪の長い女性で、たぶん同じ年頃。
――えー、いやだあ、うふふふふふ。
ベッドの上で寝転がる私の耳に、薄い壁越しに声が届く。おそらく、電話の相手は恋人。高く柔らかく弾んだ声音が、真夜中の静寂をやぶって響く。
あなた、テレビに一人で突っ込んでいる時はそんな可愛い声してないでしょうが。
寝返りを打ちながら、心のなかで突っ込む。しばらくすると、幸せそうな「おやすみ」という声が聞こえてきた。私は一層のいらいらを募らせて、舌打ちをする。
はやく別れちゃえばいいのに。
眠れないほどの騒音というわけではない。八つ当たりだという自覚はある。
その電話が始まったのは半年前。ちょうど私が海斗と別れた春の終わり頃だった。
「お前と俺って真逆だよな」
彼は何度もそう言った。出会った頃は新鮮な興味深さが、付き合い始めた頃には親しみが、隣にいるのが当たり前になった頃には愛おしさが、別れる直前の頃にはわかりあえない哀しみが込められていた。
海斗とは大学時代の同級生で、十年間付き合っていた。その間に結婚の話が出なかった訳ではない。海斗の方からほのめかされるそれを、私はのらりくらりとかわしていた。絶対にうまくいかない、と予想できたから。私たちは生活習慣がまるきり違っていたのだ。
私は朝型で、毎朝五時には起きてコーヒーを飲みながら、一日を始めるのが好きだった。海斗は夜型で、夜中の二時まで起きてビールを飲みながら、一日を締めくくるのが好きだった。
恋人として付き合っているだけならどうにかなった。海斗が寝る直前にかけてくる電話も、私が起き掛けに一緒にコーヒーを飲もうと誘うことも。ただ、結婚して一緒に生活するとなると話は別だ。うまくいきっこない。
私たちは同じ人間というだけで、異なる習慣を持つ別の生き物なのだと思い知らされるだけ。
そう決めつけて私が逃げている間に、しびれを切らした海斗の方から別れを告げられた。
順調に交際が続いているらしい隣人の楽し気な声の様子がいつもと違ったのは、冬の終わりのことだった。
――なんで、わかってくれないの!? ……私だってこんなこと本当は言いたくない!
真夜中だから声を潜めながらも、抑えきれない哀しみが滲み出ていた。壁越しに伝わる緊張感に、私は耳をすませた。別れてしまえ、と思っておきながら、胸がひりひりと締め付けられるように痛かった。しばらくすると隣人のすすり泣く声がして、そのうちに通話は終わったようだった。
隣人の喧嘩の結末が気になり、夢と現実をいったりきたりしながら朝を迎えた。
覚醒しきらない頭でコーヒーを淹れる。夢の中で海斗と一緒にコーヒーを飲もうとしていたので、寝ぼけてうっかり二杯分のコーヒーを淹れてしまった。外の冷たい空気で目を覚まそうと、カップにいれたそれを持ってベランダに出る。新鮮な空気に、コーヒーの香ばしい匂いが溶けていく。まだ暗い空で光る白い月を眺めながらコーヒーを飲んでいると、ふいに隣のベランダの方から音がした。がらがらと窓を開けて、サンダルを履いてベランダに出てくる音。
いい匂い、と呟く声が聞こえてきた。電話をしている時とは違うトーンの、思わず溢れでた独り言。私は手元のコーヒーに一度目線を落としてから上げて、無意識の間に潜めていた息を一瞬迷ってから思い切って吸い込んだ。
「あの、よかったら……コーヒー、飲みますか。もう一杯あるんですけど……」
え、と隣のベランダから戸惑う様子が伝わってきた。名前も知らない隣人から急にこんな誘いを受けたら、誰だって驚くに決まっている。そう頭では分かっていても、なにか声をかけずにはいられなかった。一拍分の間をおいてから、「ありがとうございます、じゃあお言葉に甘えて……」と声が返ってきた。
私は部屋に戻り、余っていたコーヒーを取ってきて、ベランダの柵から少し身を乗り出して渡した。隣人は手を伸ばしてそれを受け取った。コーヒーを口にする音がし、おいしい、と聞こえてきた。少しだけ迷った様子を見せてから、彼女は私に打ち明けた。
「……恋人と喧嘩してしまって」
知ってる、と心の中で思いながら、そうなんですね、と返す。
「恋人、外国の人なんです。習慣の違いとか時差とかあってしんどくなっちゃって」
それは知らなかった。ちょっと驚きながら、私はもう一度、そうなんですね、と返した。なにか、ちょうどいい言葉を探して、でも結局黙ってコーヒーを飲んだ。
「実を言うと、コーヒー苦手だったんです。でも、おいしかった、本当に。ありがとうございました」
空っぽになって綺麗に洗われたカップをこちらに返しながら、隣人は言った。私たちはみんな別の生き物だけれど、この人が幸せになれるといいな、と思った。思ってから、私も同じくらい幸せになってやるんだと覚悟を決めた。太陽が昇り始めて、また新しい一日が始まろうとしていた。
(了)