第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 灯台 吉川歩


第44回結果発表
課 題
習慣
※応募数384編
選外佳作
灯台 吉川歩
灯台 吉川歩
暗闇に、今日も「灯台」を見つけた。
十年ほど前に田んぼを潰して建てられた、だだっ広い駅だ。家賃は手頃だが、駅前には居酒屋の一軒もない。終電で降りる乗客も数人だ。
灯台は、ロータリーに停まっている一台のタクシーの行灯だった。黒塗りのタクシーは毎回同じナンバーだ。使う人も少ないので、行灯を見るたび、わたしを迎えに来てくれたようだと調子に乗った。一週間か二週間に一度、ここ三年ほどの習慣だ。
「お疲れ様です」
「商業高校前までお願いします」
「はい、分かりました」
「あったかくなりましたね。春物のコートを出しましたよ」
「ははは。三月も終わりですから」
運転手は痩せたお爺さんだ。メーター横の乗務員証曰く、名前は成瀬さん。ルームミラーに映る目は優しく、後頭部は禿げている。
ワンメーターとはいえ、終電のたびタクシーで帰るのは痛い出費だ。以前知らない男に後を尾けられてからの習慣である。それよりも前は車通勤をしていた。今では運転自体をやめてしまった。あの事件がきっかけで。
三年前の夏、わたしは車で人をはねてしまったのだ。保険の契約のことで顧客に無茶を言われ、事業部として対応すべきなのに、何とかしろと怒鳴られた帰り道だった。運転が荒くなり、気づくと、人影が目と鼻の先に迫っていた。相手は跳ね飛ばされて、動かなくなった。農道に降りてみると、同年代の女性が頭から血を流して倒れていた。
わたしはパニックになり、逃げ出した。翌朝新聞に記事が出た。彼女は搬送先の病院で亡くなったと書かれていた。
その日から、生活は一変した。だだっ広い田んぼが広がる一本道。夕暮れ時で目撃者はおらず、警察は現れなかったが、罪の意識に苛まれた。自首をする勇気もない。いっそ忘れようと、頭も体も毎日限界まで働くようになったが、記憶は当然消せなかった。
唯一の安らぎは駅で成瀬さんのタクシーに乗るこの時間だった。こんなわたしを待っている人がいると思えたし、成瀬さんが距離を置いてくれるのも安心した。成瀬さんのタクシーは難破船のわたしを照らす「灯台」だ。いつしか、そう思うようになった。
成瀬さんもわたしを覚えてくれていた。世間話に穏やかに相槌を打ち、わたしの体調も気遣ってくれた。結婚指輪は嵌めているが、家族の話は聞いたことがなかった。奥さんに先立たれるか離婚してひとり暮らしなのかもしれないと下世話な妄想をしていた。
植え付け前の田んぼがあるはずの暗闇を眺める。このまま成瀬さんのタクシーで警察に行けたら、どんなに良いだろう。
でも、どうしても、あと一言が声にならないのだ。
「お客さん、着きましたよ」
我に返った。あわてて財布を探る。橙色のルームライトが点いた。
「今まで、ありがとうございました」
驚いて顔を上げると、照れ笑いをする成瀬さんとミラー越しに目が合った。
「今月で定年退職でして」
頭が真っ白になった。そうなんですか、と呟いた。
「三月も終わりですから。最後にごあいさつをと。よく乗ってくださいましたから」
「四月から、わたしはどうやって家に帰ればいいんでしょうか」
「代わりのタクシーが来ますよ」
笑われる。そういうことではなかった。わたしが失うのは「灯台」なのだ。
「この仕事は長く続けておられたんですか」
「まあ、それなりに。十年くらいでしょうかね。その前は旋盤工でした。ボルトやネジを作るために、旋盤で金属を少しずつ削ってくんです。機械部品が好きでね。フライス旋盤なんて今の若い方は知らんでしょうが……。工場は畳んだんですが、娘が大学に行くんで学費を稼ぐためにタクシー運転手になりました」
わたしは微笑んだ。成瀬さんの家族の話を初めて聞いたから。
「娘さんがいらっしゃるんですね」
成瀬さんがミラーの中でうつむいた。表情が隠れた。
「死にましたけどね。三年前の夏に交通事故で。轢き逃げでした。優しい子でね。夫婦で遅くに授かったんですが。神様はむごいことをしますね」
言葉を失ったわたしに、成瀬さんは深く頭を垂れた。
「暗い話で申し訳ありません。お礼が言いたかったんです。お客さんを乗せるのは、私の唯一の楽しみでした。ちょうど娘はお客さんの年頃でしてね。昔はよく仕事帰りに拾ってやったもんです。改札を出てくるあなたを見ると、あの子を思い出しました。まるで娘が生き返って駆けてくるみたいだって、勝手に思っとりました。本当に、ありがとうございました」
タクシーは夜の底に沈んでいた。車から降りることを促すように、成瀬さんはライトを消した。車内は闇に包まれた。わたしは「灯台」を失ったのだった。
(了)