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第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 受刑者九〇一 しかばね園子

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
選外佳作 

受刑者九〇一 
しかばね園子

 看守の日比野は、九〇一番を注意深く観察していた。
 三十六歳の平凡な男。中肉中背のどこにでもいるような顔立ち。これといった特徴が何もない。一度や二度見たくらいではまず記憶に残らない。平均的日本人というワードでAIが作り出したような男だ。
 収監されたのは十日前で、殺人の罪で懲役八年の実刑を受けている。自身が信仰する怪しい宗教に知人を勧誘したところ、断られたうえに絶縁を告げられ、その場で絞殺してしまった。その後、身の周りの整理を済ませてから警察に出頭し逮捕された。
 この男なら何を仕出かしても不思議ではないというのが日比野の所感だった。

 九〇一番は居室の前で両足を揃えて立ち止まり、必ず右足から中に入る。出るときは逆に左足から。看守に挙手する必要がある際は、その都度、右と左を交互に上げる。うっかり間違えてしまうというようなことは一度もない。
 食事はすべての料理を順繰りに少しずつ口に運ぶ。ヨーグルトやプリンが出てもそのルールは変わらない。そうして最後のサイクルですべてが綺麗になくなる。
 排便した後に尻を拭く回数は四回。そのときの肛門の状態がどうであろうと回数が増えることはない。終わったら当然のようにペーパーを三角折りする。
 数時間置きに眉間の前で人差し指と中指を立て、目を閉じて何かを念じる。陰陽師だかの真似事をしているようで滑稽に見えるが、それが彼の宗教的な作法なのだろう。
 就寝の時間になると部屋の真ん中に布団を敷く。ぴったり真ん中である。枕の位置は入口側。知ってか知らずか方角でいうとちょうど北になる。
 寝る前に部屋の奥へ行き、白壁の隅に鉛筆で小さく正の字を書く。ごくごく小さく書かれているので、顔を近づけないと気がつかないほどだ。線を一本書く日もあれば五本の日もあり、何をカウントしているのかはわからない。これについて日比野は見て見ぬ振りをしていた。
 起床後の清掃は念入りに行い、刑務作業も熱心に取り組んでいる。受刑態度は良好。これを数年維持できるのであれば、いずれは模範囚と見做されるだろう。

 ある日の刑務作業中、九〇一番が殴られるという騒ぎが起こった。
 向かいの作業台で椅子を組み立てていたヤクザ崩れの受刑者が、九〇一番の陰陽師まがいの挙動に我慢ならず顔を殴ってしまった。
 つかの間、九〇一番は呆然としていた。そして殴られた側とは逆の頬を相手に向けて言った。こっち側も殴ってください。それを挑発と受け取ったヤクザ崩れが九〇一番の胸ぐらを掴んだところで看守たちに取り押さえられ、そのまま工場の外へ連れ去られた。
 九〇一番は困惑した顔でその様子を眺めていた。やがてそばにいた日比野に気がつくと切実な声で訴えた。こっち側の頬を殴ってくれませんか。私語を慎めと咎めながらも、日比野は思わず笑い出しそうだった。場所と立場が違えば喜んで引き受けただろう。
 九〇一番は居室に戻ってから自分で自分の顔を殴った。

 ほんのいたずら心だった。
 九〇一番が入浴の最中、日比野は彼の居室に入り、奥まで行って壁を確かめた。正の字は増え続け、見たところ二百以上はありそうだった。日比野は胸ポケットから鉛筆を取り出すと、次に書かれる箇所に線を一本つけ足した。
 それで用は済んだ。たった一本増えただけだが、九〇一番は必ずこれに気づくと日比野は踏んでいた。そして何らかの反応を示すはずだ。

 九〇一番が居室に戻ると、間もなく夕食の配膳が始まった。
 食事を終えたら就寝まで余暇の時間となる。二十時を過ぎたころ、九〇一番の叫び声が長い廊下にこだました。まるで地獄の底から聞こえる断末魔の声だった。看守たちが走って居室に向かう。
 九〇一番は腰が抜けたように尻もちをついて壁を眺めていた。看守たちはぞろぞろと中へ入り、日比野もそれに続く。九〇一番は絶望に満ちた顔をしていた。どうした、大丈夫か。看守に何を聞かれても、まともな反応を示さない。
 そのうちに矯正医官が呼ばれて九〇一番の診察を始めた。体に異常は何もなかった。あれこれと問いかけを続けるも、九〇一番は内なる世界を彷徨い続けている。何の手がかりも得られないまま小一時間ほどが経過した。
 時間が解決するでしょう。医師のそのひと言で、全員が持ち場に戻ることになった。日比野もそうした。ちょうど夜勤と交代の時間だった。九〇一番は頭を抱えて腹這いになり、自分だけの暗闇に深く沈み込んでいた。

 翌朝、九〇一番は死んでいた。
 日比野が昨夜最後に見たのとまったく同じ体勢だった。そのまま九〇一番の時間は永遠に止まってしまったのだ。
 外傷は何もなく、疾患があったわけでもない。看守たちは自殺を疑ったが、その形跡も見つからなかった。
 検視はすぐに行われ、遺体は司法解剖に回された。結果、死因を特定するには至らず、死亡診断書には不詳と記された。
 遺族となり得る者は一人もいなかった。遺体はすみやかに火葬され、行政が管理する納骨堂にひっそりと埋葬された。

 日比野だけが真相を知っていた。俺が九〇一番を殺したのだ。
 後ろめたい気持ちはない。そもそも罪の意識がない。それどころか達成感のようなものがあった。
 ただ、彼がいなくなったことで少し寂しくはあった。
(了)