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第44回「小説でもどうぞ」選外佳作 ベランダの上のアリア いちはじめ

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第44回結果発表
課 題

習慣

※応募数384編
選外佳作 

ベランダの上のアリア 
いちはじめ

 このベランダで、水平線に沈んでゆく夕陽をぼんやりと眺めるのが好きだった。
 しかしその夕日は、何本か建つタワーマンションに遮られ、今は決まった季節にしか拝めない。
 ――おっといけない。また右手が寂しがっている。
 無意識に口元に寄せたその手を、ベランダの手すりに戻した。
 ここで夕陽を拝むようになったのは、妻に強いられたからだ。妻はヘビースモーカーの私が室内で煙草を吸うのを極端に嫌がった。それは無理もない。部屋中に煙草の匂いが染みつくし、煙草の副流煙の方が体に悪いのだから、妻にとっても煙草は百害あって一利なしだ。それで妻はしきりに禁煙を勧めてきたが、私は男性喫煙者にありがちな男の沽券とやらを盾に、煙草を手放すことをしなかった。だが妻が身籠ってからはそうはいかなかった。胎児に悪影響があると涙ながらに訴えられては、しぶしぶベランダでの喫煙、いわゆる『蛍族』を受け入れるしかなかった。
 そんな経緯で、ベランダからの眺望を楽しみながらの喫煙が私の習慣となった。
 それは煙草をやめた今も続いている。何とはなしにベランダに出てしまうのだ。もちろん窓を閉めることもセットで……。もう煙が部屋に流れ込む心配は不要なのだが、それをしないとどうにも落ち着かないのだ。
 思えば今の私の習慣――寝起きの白湯、就寝前の水、食後のブラックコーヒー、日光浴等々――は、喫煙していたころに妻から薦められたものばかりだ。
 若い頃の私は、商売が順調なのを全て自分の力量によるものだと過信し、自信満々で不健康もできるくらい健康だとうそぶいていた。しかし世の中が不況に陥ると、途端にすべてがうまくいかなくなった。そして妻どころか家庭を顧みる余裕すら失ってしまい、最終的に私たちは離婚した。
 そして五年前、私は肺がんを患った。笑ってしまうのだが、それ以降禁煙禁酒は無論のこと、妻の薦めた健康習慣を受け入れているというわけだ。
 ふと目に入ったのは、ベランダの隅に置かれたプラスチックのプランターだった。それは妻がガーデニングと称して観葉植物を育てていた時のものだ。そこには妻が手塩にかけて育てた四季折々の花が美しく咲き、喫煙とは別の楽しみを私に与えてくれていた。
 だが今やプランターは色褪せ、花どころか雑草も生えておらず、そこには干からびた土くれがあるだけだ。
 久しぶりに戻った我が家のベランダで、そんな思い出にふけっていた。
 部屋に戻ろうとしたとき、人気のないはずのリビングに誰かがいた。目を凝らしてみると、それは妻だった。驚いたことに子供たちの家族もいた。
 ――今まで寄り付かなかった子供たちまで……。いったいどうしたというのだ。
 リビングに戻ろうとしたところで、彼女が窓を開けベランダに出てきた。
「久しぶりだな」
 私は声をかけたのだが、彼女は目も合わせず無言のままだ。
 ――どうしていつもこうなってしまうんだ。
 彼女はそのまま憮然とする私の脇を通り、プランターの前にかがみ込んだ。
「こんなに荒れちゃって……」
 肩越しに覗き込むと、土くれの上に黒い染みがぽつぽつと拡がっている。
 ――泣いているのか……。
 肩に手をかけようとしたところで、涙する彼女を心配して子供たちも次々とベランダに出てきた。
「母さん、大丈夫」
「おばあちゃん、泣かないで」
 彼らは心配そうに彼女に寄り添った。彼女は立ち上がると、笑みを浮かべながら涙をぬぐった。
「大丈夫よ。ちょっといろいろ思い出してしまって……。お父さんがここに小さな花壇を作ったのよ。衝突ばかりしていたけど、一緒に花を育てようって」
 ――そうだったかな……。そうだったかもしれない。
 何かとぎくしゃくしていた気まずい雰囲気を、私なりに何とかしようと思って共通の趣味を持とうとしたのだ。しかしまあ私が喫煙している限り、妻は一緒に菜園をしてくれたことはなかったわけで、別れることは不可避だったのだろう。
 それでも離婚後入院するまでは世話を続けた。これも習慣と言えば習慣だが、今思えば世話を続けていたらいつか彼女が戻ってくるんじゃないか、と思っていたのかもしれない。
「ねえおばあちゃん、小さな芽が出てるよ」
 唐突な孫の言葉に私を含めたみんながプランターの中を覗き込んだ。
 さっきは気づかなかったのだが、確かに土くれのひびの間から、浅緑色の小さな芽が一つ出ている。『おう』という感嘆の声が沸き上がった。
「おばあちゃん、これ持って帰って育ててもいい?」
「いいわよ。これはきっとおじいさんがあなたのために残したものでしょうから。さあどんな花が咲くのでしょうね、とても楽しみ」
 胸に何か熱いものがこみあげてきた。
 彼女と一緒に過ごした時間というものが、確かにここにあったのだ。
 私は居たたまれなくなり、楽しそうに語らうみんなの輪から離れ、部屋に戻った。
 テーブルの上には、黒い額縁に入った私の写真と、一つの白い包みがぽつんと置かれていた。
 ――そういうことか……。
「ありがとう」
 私は、ベランダのみんなに無言の別れを告げた。
(了)