公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第45回「小説でもどうぞ」佳作 隣のうわさ 渋川九里

タグ
小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第45回結果発表
課 題

隣人

※応募数393編
隣のうわさ 
渋川九里

 出勤する夫を笑顔で見送った後、さやかはそっとため息をついた。結婚して三カ月。不満はないが、ストレスのない生活は少々退屈だ。ダイニングに戻り、スマホに手を伸ばしてインスタグラムを開く。同世代のキラキラした投稿を見ると自分が随分老けた気がする。ぼんやり眺めながら指を動かしていると画面の端に表示された時間に目が止まり、慌てて立ち上がる。
 ――ごみ出さなきゃ! 
 足早にマンションのごみ置き場に向かうと前方から話し声が聞こえてきた。さやかは曲がり角からそっと顔を出してごみ置き場の方を見る。七、八十代の女性三人が立ち話をしている。
「今朝のワイドショー観た?」
「観た、観た」
「芸能人がまた不倫だってね」
「いい人に見えたんだけど」
「やっぱり人は見かけで判断しちゃダメね」
「ほんとよねぇ」
 さやかは首を戻して大きく息を吐いた。引っ越してきた日、この三人につかまって根掘り葉掘り聞かれたのだ。新しい住人が来るたびに勝手に身辺調査をしているらしい。
 さやかは気合を入れて角を曲がった。
「おはようございます」
 先手を打って明るく挨拶する。
「あら、松本さん、おはよう。ちょっと遅いわね」
 口火を切るのはいつもこの山田という女性だ。
「もう来ちゃうわよ、収集車」
「寝坊?」
「いえ~」
 さやかは貼りつけた笑顔のまま素早くごみ袋を置き、そそくさと元の道を戻る。
「そういえば、最近八階に引っ越してきた人いたでしょ?」
 ふいに飛び込んできた「八階」という言葉にさやかの足が止まった。
「いた、いた」
「八〇三号室よね?」
 隣の家のことだ。さやかは角を曲がったところで立ち止まり三人の話に耳を傾けた。
「ウチの孫が言っていたんだけど、なんかヤバい人らしいの」
「もしかしてヤクザ?」
「えー、怖い」
「それが、女一人らしいのよ」
「ヤクザに囲われた愛人って可能性もあるわね」
「それは困るわぁ」
 ガタガタと音がしてごみ収集車が到着した。三人が解散してこちらに来るかもしれない。さやかは慌ててその場を離れた。
 エレベーターの中でさやかは一週間前の八〇三号室の様子を思い出していた。荷物が運び込まれているのは見たが、一度も隣の住人に会っていない。
 翌日さやかが一階でエレベーターを待っていると山田と鉢合わせた。
「松本さん、八〇二号室だったわよね?」
「はい……」
「お隣、最近引っ越してきたでしょ? お宅に挨拶来た?」
「いいえ」
「やっぱりね……。気をつけなさいよ」
 山田はそう言い残して四階で降りていった。
 その夜、さやかは残業で遅く帰ってきた夫に隣の家の話を振ってみた。
「でもウチに迷惑かけているわけじゃないだろう?」
「そうだけど……」
「うわさ好きな年寄りの話を真に受けるなよ。気にしない、気にしない」
 会話はここで終わった。夫が風呂に入ると、さやかは気分転換にベランダに出た。隣からは煌々と灯りが漏れている。桟から少し身を乗り出してみたが、部屋の中は見えない。でも、かすかに話し声が聞こえる。あの三人組の話だと一人暮らしのはずだ。
 ――もしかしてヤクザが来ているとか……?
 頭を振って妄想を消し、急いで部屋に戻った。
 次のごみ出しの日、さやかはごみ置き場に向かう角から顔だけ出して様子を伺う。やはり三人組がいる。話題は今日も隣の住人のことらしい。
「あの八〇三号室の人、インフルエンザらしいわよ」
「えーいやねぇ」
「うつされたら大変」
「引っ越してきて早々に変なもの持ち込まれたら困るわね」
「ほんとよ」
「このマンション、年寄り結構いるのにいい迷惑だわ」
 午後、買い物に行こうと家を出たさやかは、エレベーターを待つ見知らぬ女性と出会った。大きいサングラスとマスクで顔はわからない。さやかが会釈すると女性も返したが、少し顔を背けたように見える。エレベーターが来ると、さやかは三人組の話を思い出しマスクをそっと取り出してつけた。
 エレベーターは四階で停止し、二十歳前後の女の子が乗ってきた。山田の孫だ、とさやかは気づいた。以前スーパーで買い物している二人と出くわしたことがある。
 女の子はエレベーターのボタンの前にすっと滑り込み、一階に着くと開けるボタンを押して先にさやかたちを通した。そのままさやかがマンションを出ようとすると、
「あ、あの!」
 意を決したような声が背後から聞こえた。
「インフルエンサーのゆかさんですよね! いつもインスタ観ています!」
 さやかが振り向くと、女の子の目がまっすぐサングラスの女性を見ている。女性はサングラスとマスクを外すと少し苦笑いしながら頷いた。その顔はさやかも知っている。今朝もインスタで見た、最近話題のコスメ系インフルエンサーだ。
「引っ越しのときに見かけて絶対ゆかさんだって思って。家が近所とかほんっとヤバいってウチでも話していたんです!」
 飛び跳ねそうな勢いの女の子にゆかは笑顔で応じている。その傍らでさやかは恥ずかしさで顔がほてるのを感じながら、マスクでバレないことにほっとしていた。
(了)