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第53回「小説でもどうぞ」最優秀賞 蟹鍋 多賀谷なめろう

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小説
小説でもどうぞ
第53回結果発表
課題

※応募数466編
蟹鍋 
多賀谷なめろう

 蟹と目が合った。年の瀬の土曜日、自宅に届いたお歳暮の箱を開けたときのことだった。
 島根に住む知人から送られてきたその蟹は、大きく立派で瑞々しかった。そしてまだわずかに息があり、時おり脚が動いていた。
 今日の夕方の便で蟹が届くことは友人から知らされていたため、のろのろと体を引きずるようにして休日出勤に出向く夫には、激励の意を込めて、
「今夜は蟹鍋よ」
 と宣言してあった。
 しかしである。まさか生きた状態の蟹が届くとは思いもしなかった。青天の霹靂へきれきとはまさにこのこと。
 いや、本来ならば活きの良い新鮮な蟹がタダで手に入ったのだから泣いて喜ぶべきだ。だが、生きているということは、その息の根を私が止めなければならないということである。
 パック詰めされ、あからさまに死んだ状態の肉や魚しか調理したことのない私は、その事実を前に蟹鍋の延期も考えた。しかし、蟹鍋を楽しみに休日出勤へ向かった夫の期待を裏切るわけにはいかない。私は覚悟を決め、スマホで蟹の締め方を調べ始めた。
 とある水産会社のWebサイトによれば、生きた蟹は、甲羅を下にした状態で真水に十五分ほどつけておけば動かなくなるらしい。その説明書きにはデフォルメされた蟹のイラストが添えられており、吹き出しの中には「生きたまま茹でると暴れることもあるよ!」とポップな字体で記されていた。
 真水につけて締める。残酷なことのように思えるが、工程としてはとてもシンプルだ。踏ん切りさえつけば一人きりでも決行できる。
 先延ばしにしても、結果は変わらないのだ。意を決して、いまだ箱の中でモゾモゾと鈍く動く蟹を両手でむんずと掴んだ。蟹の「お助け……」という声が聞こえるような気もしたが、目を固く瞑り、「ごめん! 許せ!」と唱えながらコトに及べば、元々弱りきっていた蟹はすぐに動かなくなった。
 こんなに大きな生き物の命を、ろうそくの火を吹き消すかの如く容易く奪ってしまったことに、安堵と妙な高揚を覚えた。
 すっかり扱いやすくなった蟹を鍋用に解体しているうちに夫も帰ってきた。その顔には蟹鍋への隠しきれない期待が表れている。
「やはり今日は蟹鍋にしてよかった」と思う反面、箱を開けてから真水の中にひっくり返すまでの間、私を見つめていた蟹の目線が、頭の後ろの方にベッタリと張り付いていた。
 蟹は大変美味だった。
 それ以降、肉や魚を食べるたびに、どこからかあの蟹が私を見ているような気がしてならない。蟹は、あるときは海中をものすごいスピードで泳ぎ回るマグロの姿で、またあるときは高らかに声をあげながら穀物を貪る豚の姿で私を見つめた。彼らを単なる切り身や肉塊として捉えることを蟹は許さなかった。
 私に向けられた蟹の眼差しは、あの日、いとも簡単に命を奪ったことや、僅かな金銭で顔も知らぬ誰かに奪わせた命を喰らい続けることを糾弾しているに違いなかった。しかし私はこれからも美味い肉や魚にありつきたい。そのたびに蟹の幻影に苛まれるのは御免だ。どうにかして蟹の許しを得る必要がある。
 蟹と目が合った日から約二週間。大晦日を明日に控え、私はいつもより少し足を伸ばして大型のスーパーに買い出しに来ていた。
 明日のメニューはもう決まっている。もちろん蟹鍋だ。それも切り身になって並んでいる蟹ではなく、まだ生きている蟹を使った蟹鍋。できるだけ元気な蟹ともう一度対峙し、あの日の罪と、これからも犯し続ける罪の許しを乞うのだ。
 元旦用の惣菜など当面の食料を買い物カゴに詰め込み、最後に鮮魚コーナーに立ち寄る。自宅の最寄りのスーパーとは違って、切り身になっていない魚も多く並んでいた。エアポンプが刺さった箱の中でひっそりと息をする貝類も種類豊富だ。
 蟹も、大小さまざまなものが氷の上に並べられていたり、水の張られた箱の中に入れられていたりしたが、その中でも目を引いたのはあの日と同じ立派なズワイガニだった。氷の上に無造作に並べられたその蟹は、よく見れば脚が緩やかに動いており、口から少しずつ泡を吐き続けている。確かにまだ生きている。
 蟹の前に立ち、その目をじっと見つめると、蟹もこちらを見つめ返す。私たちは今、互いに互いの存在を認め合っている。蟹に心の中で語りかけた。
「あのときは、ごめん」
 蟹の脚の動きはぴたりと止まり、そのまま無言でこちらを見つめ続けている。私はさらに問いかける。
「申し訳ないけど、お前を連れて帰って、殺して、食べてもいいかい?」
 次の瞬間、蟹の怒声が聞こえた気がした。
「いいわけねーだろ!」
 ……そうか、いいわけないか。そりゃそうか。
 どんなに謝罪をしようが、どんなにおもねろうが、そう易々と自らの命を差し出す生き物などこの世にあるはずがない。そもそも許しを乞うことがハナから間違っていた。馬鹿馬鹿しいことをした。もしかしたら、無用に心を痛めたフリをして、許しを得たがるその下卑た傲慢にこそ蟹は憤っていたのかもしれない。
 私は最初に蟹と目が合ったその瞬間から、堂々と何のためらいもなく蟹を殺し、ただただその旨さだけを享受していれば良かったのだ。
「いいわけねーだろ!」とわめいたって、逃げ出そうとしたって、私はこの活きの良い蟹を連れて帰ろう。今度は後ろ暗さを微塵も感じることなく真水に放り込み、その味わいへの期待のみを胸に解体してみせる。そして、ぎっしり詰まった身やみそを喰らい尽くしたら、あとに残った硬く立派な殻と筋を眺め、「おいしかった」とまっすぐに笑ってやるのだ。
「観念しな」と小声で囁きながら目をやると、蟹は透明の膜に覆われた泡の玉を二つ三つ吐きながらこちらを睨みつけていた。
(了)