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第53回「小説でもどうぞ」佳作 神様のカフェオレ 雨森紫花

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小説
小説でもどうぞ
第53回結果発表
課 題

※応募数466編
神様のカフェオレ 
雨森紫花

 キッチンのシンクの縁に置かれたコーヒーマグ。そこにはいつだって甘いカフェオレが半分だけ入っている。朝、母が飲み残したものだ。私が朝食の皿を下げるとき、それはシンクの守り神のように鎮座している。学校から帰るとカフェオレはさらに半分に減っていて、翌朝にはまた新しくなっている。
 世の中の甘いものと可愛い子熊のモチーフ。それが母の好きなもの。実家にはいつもお菓子が数種類は常備されていたし、私が初めて買ってもらったぬいぐるみはテディベアだった。英才教育のおかげで私もすっかり子熊好きの甘党に育った。東京のお土産なんてなくて、新幹線を降りてから買ったケーキでも母は歓迎する。そして子熊の描かれたケーキ皿を食器棚の奥から引っ張り出してくる。
 子供の頃、母お気に入りのパディントンベアのコーヒーマグを割ってしまった。手から滑り落ちた瞬間、一緒に心臓も割れたら良いのに、と思った。床に散乱したマグの破片、その横で娘も倒れていたらさすがに母も怒ったりしないだろう。でも私が後を追う前に音を聴きつけて母はキッチンにやってくる。そして天罰のごとく怒鳴るのだ。
 何してるの。最悪。落としたって、なに、嫌がらせのつもり?
 そうしてしばらく、私には洗い物禁止令が下された。母のコーヒーマグは銀行でもらった星柄のものに変わった。白地に四角く切り取られた小さな宇宙。チープな絵柄だった。けれど愛らしい子熊よりずっと高尚で威圧感があった。
 良いご身分よね。母はよく私に言った。ただ食卓を拭き上げるという単純な労働の対価に、私は母の作った食事、母の沸かした風呂、母の干した布団を享受していた。皿を洗わせれば腹いせに家政婦のマグを割る悪役令嬢。それが私。
 もちろん本当はもっと役に立ちたかった。トイレ掃除はちょっと嫌だけど、料理や他の家事には興味があった。しかし要領の良い母が全てを仕切る家は、まるでスペースシャトルの中のように緻密で無駄がなく、素人が触れるには危険が多すぎた。宇宙服を持たない私は船内で庇護を受けるしか生きる術がない。せめて息を潜めて、何もしない方が母のためにすら思える。そんな私の献身をわかってくれない母が憎らしかった。
 だから私はささやかな報復に手を染めた。叱責を受けた日の食後、テーブルを拭いたその布巾を母のコーヒーマグの上で絞った。でも、それはほんのちょっとだけ。あまりかさが増すとバレる可能性がある。カフェオレはブラックホールのように、それを取り込んで掻き消してくれた。ついでにコンロ周りも念入りに掃除するようになった。その方が布巾がよく汚れるからだ。
 実家に帰ると、今もキッチンのシンクの縁には母のコーヒーマグが置かれている。星柄のプリントはところどころ剥げて、年月の経過を感じさせる。それを目にするたびに私の胸はじくじくと痛むのだ。汚水を含んだカフェオレを、そうとも知らず母は何杯も飲んでいた。時には異変に気付いて捨てることもあったかもしれない。だがそれが娘の故意による仕業だとはさすがに思っていないだろう。それとも全てを察した上で、当てつけにマグを置き続けているのだろうか。
 母親譲りの口の悪さで恋人とは長続きした試しがない。結婚式に花嫁のベールを掛けさせてあげることもできていない。孫を抱かせる予定もない。もし母が要介護になったって、私は仕事を優先する。そのときが来れば嫌でも施設に押し込むと決めている。これから先も母は私に幻滅し続けるだろう。
 今、私は母のカフェオレに蜂蜜を垂らす。牛乳はアーモンドミルクに置き換えて弱火で丁寧に温める。お洒落なカフェの飲み物みたい、と母はそれを喜ぶ。ほんの少し手間をかけただけのカフェオレで、私は母の作る朝食、母の沸かした風呂、母の敷いた布団を享受する。滅多に顔を見せない親不孝な娘のために母は全てを支度する。
 お正月も帰ってきなさいよ。母は言った。新幹線代は出してあげるから。私は朝食の皿を洗いながら曖昧な返事で場を濁す。年季が入った団地のキッチンは狭い。今日もそこに鎮座するシンクの守り神に泡が飛び散りそうで落ち着かない。この小さな家に閉じ込められた星が、静かに、緩やかに色褪せていた。淡い茶色のブラックホールは私の心の澱だけを選り分けて、なかなか溶かしてくれない。
(了)