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第53回「小説でもどうぞ」佳作 みかん 榛野ひつじ

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小説
小説でもどうぞ
第53回結果発表
課 題

※応募数466編
みかん 
榛野ひつじ

 俺はみかんが好きだ。皮をわしわしと剥く感覚、指先を尖らせて無心で白い筋を取り除く時間、一口噛めば薄皮から溢れだす甘酸っぱい果汁。そのどれもが俺を魅了してやまない。
 だが残念なことに、箱いっぱいにみかんを買って日に何個も食べるほどの経済的な余裕が俺にはない。だから俺はちびちびとスーパーの袋入りみかんを買う。一袋四百九十八円。たいして腹の膨れない果物にこの出費は痛い。しかも目視で美味いみかんを見極めなければならない。完全に博打だ。張りがあって甘いのが三つもあれば当たり、半分以上味が薄かったら負け。たまに異常に水分の抜けた個体が混じっていて、それに当たった日はもう何も信じられなくなる。
 そんなある日、アパートの廊下で事件は起きた。コンビニへ行こうと玄関を出ると、隣人の部屋の前に大きな段ボール箱が置き配されていた。それも二つも。
「みかん」
 外箱に大きく主張している文字に思わず目が釘付けになった。二つの箱は異なる装丁だが、いずれの箱にも「みかん」の三文字があった。箱もかなり大きい。希望が詰まっているサイズだ。俺は箱をまじまじと見た。心の中で悪魔がささやく。二つもあるのだから、一つくらい……。いや、それは犯罪だ。それに、箱の中身がみかんとは限らない。
 ひとり悶々としていると、ガチャリとドアが開いた。出てきた隣人と目が合ってしまった。
「こ、こんにちは」
 俺はなんとか挨拶を絞り出し、逃げるように箱の前を通り過ぎた。その瞬間、隣人に呼び止められた。
「あの、もしよければ、みかんをもらってくれませんか?」
 信じられない気持ちで振り返ると、隣人が箱ごと一つを俺に差し出していた。
 俺は叫びだしそうな衝動を抑えながらしどろもどろにお礼を言い、コンビニへ行くのも忘れて自室へ戻った。目の前にはみかんの箱が一つ。しかもよく見れば「有田みかん」と書かれている。聞けば隣人は和歌山県出身で、冬になると実家や地元の友達からみかんが次々に送られてくるという。奇跡的にそのおこぼれにあずかれるとは、今日の俺はなんてツイているのだろう。ただの隣人だと思っていたが、今日の俺には神にも仏にも等しい存在に見えた。
 箱を開けてみると、ひと目で高級品とわかる艶やかなみかんがぎっしりと詰まっていた。早速ひとつを手に取った。張りがある。皮を剥き、指先で撫でるように丁寧に白い筋を取り、一房を口に含む。美味い。美味すぎる。繊細な薄皮に包まれた果肉から濃い果汁が溢れ、口いっぱいに幸せが広がる。
 これはもはやただのみかんではない。有田みかん様だ。俺の五感は完全に有田みかん様に支配された。
 有田みかん様との生活はまさに至福だった。朝起きて一つ食べ、職場に持参し昼食後に一つ、晩酌後にまた一つ食べる。それでもなお、箱の中には数え切れないほどの有田みかん様が眠っている。なんという僥倖だ。
 しかしそんな幸せな日々も長くは続かなかった。日に三つも食べ続けたせいで、三週間も経つ頃には箱の底が見えてしまった。徐々に鮮度が落ちてきてもなお美味しいのだから、見事というほかない。
 そしてとうとう最後の一個を食べ終えた休日の朝、俺は深い喪失感に襲われた。空っぽの段ボール箱を畳む気にもなれない。贅沢を覚えてしまった俺の舌は、もう一袋四百九十八円のみかんでは満足できないだろう。これからどうすればいいのかと頭を抱えた。隣人よ、おまえは大罪を犯したぞ。俺に有田みかん様を知らしめたこの罪、どう落とし前をつけてもらおうか。
 逆恨みも甚だしいことは百も承知でうなだれていると、はたと思いついた。そうだ、来年も譲ってもらえばいいじゃないか。隣の部屋に住んでいるだけの俺に一箱まるごと譲るくらいなのだから、隣人は相当に有田みかん様の処遇に困っているとみえる。隣人に俺という存在をもっと印象付けて、来年の譲り先には真っ先に俺を思い出してもらわなければ。
 そうとなれば、まずは隣人に有田みかん様のお礼をしなければなるまい。他の譲り先よりも優位に立てるような、なにか気の利いた返礼品はないものか。
 あれでもない、これでもないと考えあぐねていると、玄関のほうでドサッと荷物を置くような物音がした。俺の部屋に何か届いたのだろうか。それとももしや、また隣の部屋に有田みかん様が届いたか……?
 俺は財布と鍵を持ち、まるでコンビニにでも行くかのような顔をして玄関のドアを開けた。
 テレビCMでよく見かける引っ越し業者が、隣の部屋からソファを運び出していた。その様子を玄関前で見守っていた隣人と、目が合った。隣人が「あ、先日はどうも」と話しかけてきた。
「あんなに大量のみかん、押し付けちゃって大丈夫でした? 実は今日、引っ越すんです。騒がしくてすみません。すぐに終わりますので」
 隣人は軽く会釈するとバタバタと室内へ戻っていった。
 俺はしばしその場に立ち尽くした。
 隣人よ、やはりおまえは大罪人だ。
(了)