公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

第53回「小説でもどうぞ」佳作 半分の血 育苗果来

タグ
小説
小説でもどうぞ
第53回結果発表
課 題

※応募数466編
半分の血 
苗育果来

 三月三十一日の夜。
 私は自分の部屋で新しい制服の折り皺を伸ばしていた。
 ドアがノックされ、母が顔を出した。
「ちょっといい? 大事な話があるの」
 いつもとは違う低い声だった。私はハッとして「うん」と答えた。
 来週から高校生になるというタイミングで、母から「大事な話」があるという。即座に「来た」と思った。私は心を落ち着かせ、深呼吸をしてから自分の部屋を出た。
 狭いアパートのダイニングで、普段通りテーブルに着いた。
 母は台所に立ち、「紅茶でいい?」と私に聞いた。
 紅茶のカップをテーブルに置く母の表情は穏やかで、私は少し安心した。母はいつも通り向かいの席に座ると話を切り出した。
「お父さんのことなんだけど」
 私はカップから立ちのぼる湯気を見つめていた。「やはりお父さんの話だ」と心臓がトクンと跳ねた。
 私は視線を上げて、母を見た。母はずっと父の話を避けてきた。母と私、二人だけの家族の唯一のタブーだった。
「お父さんはね、残念だけど、もうこの世にはいないの」
「あぁ。そうなんだ」
 父はどこかで生きていると私は勝手に思っていた。別の家族がいて、そっちの家で楽しく暮らしていると。欲張りな夢を見たこともあった。父は、実はとんでもない大企業の社長で、私が大人になったときに高級車に乗って素敵なディナーに誘ってくれる。そんな贅沢な夢は別としても、私や母が本当に困ったときはヒーローのように助けに来てくれるはずだ。そんな期待をずっと抱いていた。
 でも、父はもうこの世にはいなかった。生きてはいないのだ。
 希望の糸は、とっくに切れていた。
 涙がじわっと滲んできた。
 うつむいていた私が顔を上げると、母の瞳も潤んでいた。
 今夜、私にこの話をしようと決めたことに、どれだけの勇気が必要だったことだろう。
 母の覚悟にきちんと向き合わなければいけないと思った。どんな話でも受け止める姿を見せたくて、私は背筋をピンと伸ばした。
 母は紅茶をひと口、口に含んだ。私もひと口だけすすった。
「あのね、とっても言いにくいことなんだけど」
 母が丁寧な前置きをするので、私は母を安心させようと微笑んで言った。
「大丈夫よ。なんでも言って」
 すると、母は突然泣き出した。
「ありがとう」
 母は嗚咽しながら、何度も「ありがとう」を繰り返した。
 私は席を立ち、母の背中をさすった。母の激しい息遣いはしばらく続いた。
 私はかなり動揺していた。次に母が伝えようとしている告白が、私のこれからの人生を大きく左右する予感がしていた。
 落ち着きを取り戻した母は、「大人になったね」と赤い目で私を見た。私もすっかり泣き顔になりながら、「大人になったよ」と返した。
「大丈夫。なんでも言って」
 さっきみたいにそう続けたかったが、臆病な私はそれを言うだけの度胸がなかった。何も言えず、母を見た。明らかに怯んでしまっている私の表情に、母は話すのをためらっているように見えた。だけど、母は大きく息を吸って、父に関するある秘密を打ち明けた。
「お父さんね、若い頃、仕事場でケンカをして」
 私は息を呑んだ。
「現場監督だった人を殴ったの。鉄パイプで」
 きっと思い出したくない話なのだ。母は大きく息継ぎをしながら、話を続けた。言葉を絞り出すように。
「その人、どうなったの?」
 私は話の続きを知りたかった。
「まだ五十代の人だったけど、病院で意識不明のまま亡くなったの」
 私は大きく息を吐いた。
「家族の人は?」
 母は首を横に振った。
「天涯孤独っていうのか、身寄りのない人だったのよ」
 当然、父は逮捕された。そして、刑務所で亡くなったのだ。
 警察の人から「急な心臓の発作だった」と母は聞かされたそうだ。
 私を身ごもっていた母は実家があるこの町に戻り、私を出産し、ここまで大きく育ててくれた。
 長い間、私が聞くことをためらっていた父に関する大事な話は数分で終わった。
 それが、母が新婚生活を送った東京で起きた出来事だった。
「私に何かできることあるかな?」
 父の代わりに罪ほろぼしができるなら、何でもやりたいと思った。
 でも、母は「紗絵は何もしなくていいの」と笑顔で言ってくれた。
「事実を知って、忘れずにいてくれれば、それだけでいい」
 私は黙った。そんなわけにいかないと思った。
 と同時に、内心ほっとしていた。
 私のこれからの人生で、父が犯した罪が頭から離れる瞬間はないと思う。
 もし、私に大切な愛する人ができたときは、その事実を伝えなければならない。
 今夜、母がそうしたように。

 高校に入って、ある先輩と出会った。
 入部した演劇部の先輩で、彼もまたお父さんの記憶がなかった。
 とても話しやすい雰囲気を持った人で、私は思いきって父の話を打ち明けた。
「私の中を流れる半分の血が、人を殺めた父と同じ血です」
 すると、先輩は一冊の本を私に貸してくれた。
 それは三浦綾子さんの『氷点』だった。私はその小説を繰り返し読み、泣いた。
「原罪」という言葉を初めて知った。漠然とした不安に覆われていた心に光が射したと感じた。
 私は何を恐れ、何を恨み、何と戦おうとしていたのか? それを大切な人に伝える言葉を獲得したと思った。悩みは消えなくても、心配してくれる先輩に私の苦しみを伝えることができる。言葉の発見がこんなにうれしいことだとは思いもしなった。
 先輩とは長い付き合いになる。私は根拠もなく、そう確信していた。
(了)