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第4回「おい・おい」佳作 越えてしまった一線 小澤和夫

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佳作

越えてしまった一線
小澤和夫(兵庫県・66歳)

 

 齢を重ねて、頑固さが増してきた私に、こんなことが起きるなんて思ってもいませんでした。
 私は生まれつき犬との相性が悪く、物心ついたときにはそれに気づいていました。幼稚園の頃、公園で子犬に吠えられ追いかけ回されて泣きじゃくり、小学生になると、近所の犬に手を伸ばした途端に噛まれて出血し、大騒ぎになりました。
 それ以来、目が合えば吠えられることが続き、私は犬を嫌って相容れない存在だと悟りました。学生時代の友人や恋人は犬を飼っていない人を選び、社会人になってからの住居はペット厳禁。このようにして、できるだけ犬と関わらないようにしてきました。それでもふいに出くわすと、従来と同じ仕打ちを受けました。とても腹立たしく、不愉快でしたが、怖いので辛抱して我慢するしかありませんでした。
 定年退職後は、朝の散歩中に犬を見かける程度になり、ようやく胸をなで下ろしていました。そんなセカンドライフで、動画を見る時間が増えました。好きな野球の映像を眺めていると、画面に映る少年たちの姿に思わず目頭が熱くなりました。ずいぶん涙もろくなったものだと、自分でも驚きました。
 ある日、突然おすすめの動画に柴犬が現れました。怖いもの見たさで再生すると、それから次々と表示されるようになりました。困ったことに、その姿が白球を夢中で追う子どもたちの健気さと重なってしまったのです。無心に走って散歩する様子や、飼い主を見上げるつぶらな瞳に、なぜか胸を打たれました。気づけば一つ一つの仕草に涙しており、「また泣いている」と家族にからかわれる始末です。
 そんなある朝、散歩の途中、動画で見た柴犬によく似た犬と出会いました。驚いたことに、目が合っても吠えないのです。何度か顔を合わせると、尻尾を振られるようになり、見かけない日は寂しさを覚えるまでになりました。
 いけない、いけない。これまで受けた仕打ちを忘れたのか、あの決心はどうしたのか。そう自分に言い聞かせても、目が合えば尻尾まで振ってくれるのです。
 ある日、私は飼い主に挨拶をし、「かわいいですね。この子のお名前を教えていただけますか」と聞いてしまいました。そうです。私はついにとうとう、一線を越えてしまいました。長年築いてきた犬嫌いの壁は、音もなく崩れていました。
 老いは、かわいさの前では意固地になるどころか、気持ちが素直になることがあるのかもしれません。その変化を、今は少し楽しんでみたいと思っています。
(了)