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第4回「おい・おい」選外佳作 フェイクな老後 高橋菜穂子

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おい・おい
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結果発表
<選外佳作>

フェイクな老後
高橋菜穂子(大阪府・61歳)

 

 ついにとうとうそんな日が来てしまった。ずっと歯科通いしていた夫が、歯を一度に三本も抜くという。今年六十四歳になる夫は既に二十代の頃、一本抜いてブリッジにしていた。昔は今と違って、簡単に歯を抜かれたものである。かく言う私も、早々に一ヵ所欠損したところがブリッジになっている。
 三本ともなれば、夫は今度こそ間違いなく入れ歯になるのだろう。私は上下共に総入れ歯だった父のことを思い出していた。
 朝食後に洗った入れ歯を洗面所に置きっぱなしにしていると言って、母がずいぶんと怒っていた。触るのも気持ち悪いから、父が気づくまでそのままにしているのだと。
 父が介護を受ける身になってからは、私が父の入れ歯をブラシで洗ってやっていた。母は気持ち悪がっていたが、私は介護職の経験があるためか、入れ歯に触ることには慣れていた。そのため、特に抵抗はなかったが、夫は入れ歯ではなくインプラントを希望していたのだった。
「で? 一本いくらくらいかかるの?」
 気になるのはそのお値段である。とにかく高いというイメージしかない。そろそろ年金を貰う年齢だけに大きな出費は困る。
「百万くらいかなあ」
 こともなげに夫はそう言う。一本百万円、三本で三百万円……。けっこうな車が一台買えてしまう。
「入れ歯じゃ、ダメなの?」
「出し入れするのが面倒くさいよ」
 食事のつど出したり入れたり、入れ歯安定剤で固定したり、今までにない手間にストレスが多いことはわかる。しかし、それならばなぜ、今まで歯のお手入れを疎かにした? 夫が歯磨きと同時に、歯間ブラシや糸ようじなるものを使い始めたのはつい最近になってからのことである。
 若い頃から、食後はティッシュで歯の表面のザラザラを擦っていたようなものぐさな人だった。ちゃんと歯を磨きなさいと母親のように何度も注意したが、聞く耳を持たなかった。もっと早く気づいてくれていたら、三百万円もの出費はなかったかもしれないのに。
 夫の歯は三本、偽物の歯になる。これから耳が遠くなれば補聴器が、白内障になればレーザー治療が必要になる。足が弱れば杖が、また車椅子が必要になり、自分を介護してくれる施設にもただでは入れない。
 年を取るにもお金がかかる。お金がないなら、できるだけ健康でいなければならない。偽物の歯はこれ以上増やせない。
 夫の隣で、私もせっせと歯磨きに励んでいる。
(了)