第4回「おい・おい」選外佳作 幸せを忘れないで 白里りこ


幸せを忘れないで
白里りこ(神奈川県・29歳)
数年振りに祖母に会いに遠方の老人ホームを訪れた。話に聞いていた通り、祖母は私のことを忘れていた。歯が減った口から「誰やねん」という言葉が出た。思いのほか元気な声だったので、私はむしろ安心しながら、フルートケースを開いた。
認知症になってからの祖母は、よく童謡を歌っていた。お陰様で私は「みかんの花咲く丘」を覚えた。今回も喜んでもらうつもりで私は楽器を持参したのだった。そのことを言うと、「あとでホームの皆様にも聞かせてほしい」と介護士の方に頼まれていたのだが、その前に祖母の部屋で軽く音出しをした。
ところが、私が「みかんの花咲く丘」を吹いても、祖母は特に反応しなかった。歌いもせず、手も叩かず、表情も動かさない。車椅子の上で俯いて口をもぐもぐさせるだけ。
少し気分が重くなる。たとえ私のことを忘れても、幸せな気持ちは思い出してほしいと思っていたのに、祖母はついにそれすらも分からなくなってしまったのか。
すべて忘れたうえに、常に落ち込んだまま生きるのがどれほどつらいことか、私には想像がつかない。しかし、もう私にはどうしようもない。
ともあれ、私は約束通り、二十名ばかりの老人方の前で小さな演奏会を開いた。急な頼みだったのでろくに練習もしていなかったが、私の音楽が誰かの役に立つならと、懸命に音を鳴らした。
「ふるさと」「浜辺の歌」「早春賦」「みかんの花咲く丘」。皆様は声を出して歌ってくれたし、感激して涙を流してくださる方もいたが、一番前の特等席で聞いていた祖母にはやはり目立った反応は見られなかった。
私は若干の無力感に苛まれつつ、そそくさと片付けを済ませ、祖母に別れの挨拶をするために改めて向き直った。
そのとき、祖母の口角が僅かに上がっているのに気づいた。顔じゅうの皺がやや深くなり、小さくつぶらな目が黒々と光っていた。
介護士の方がにわかに大喜びをし始めた。こんなにうれしそうな様子を見せるのは久々だと言いながら、貴重な瞬間を写真に収め出した。
もしかして私は役に立てたのだろうか。祖母は私の演奏で幸せになってくれたのだろうか。
認知症の人が本当は何を感じているのか、我々が真実を知ることは難しい。しかし、ぼうっとしているだけのようでも、心の中はきっと豊かだ。今の祖母のように。
私は車椅子の前にしゃがんで祖母の手を取った。
「また来るから。元気でね」
祖母は相変わらず口をもぐもぐさせていたが、その顔はちゃんと笑っているのが、私にもよく伝わってきた。
(了)