第4回「おい・おい」選外佳作 消えた私と、消えない記憶 さらまる


消えた私と、消えない記憶
さらまる(東京都・23歳)
「どちらさんですかねぇ」
この言葉を聞いた瞬間、脳内が真っ白になった。「あぁ、ついにか」と覚悟していたはずなのに、いざ突きつけられるとショックで膝の力が抜け、崩れ落ちそうになった。
祖父は私の憧れだった。いつも太陽のように明るく、孫の私を誰よりも可愛がってくれた。そんな祖父の異変は高校二年の冬。大好きだったゴルフクラブを指さし、「これ、なんやったっけ」と寂しそうに呟いたのだ。大切な名前さえ奪う病の残酷さを、子どもながらに肌で感じた瞬間だった。
受験期に入り、次に祖父に会えたのは高校三年の夏。かつて喜んでくれたクッキーを焼き、様子を見に行った日。家の前で花を眺めていた祖父の背中は、記憶よりずっと小さく、細く感じられた。
「おじいちゃん!」と不安を振り払うように声をかけると、祖父はゆっくりと時間をかけて振り向いた。祖父の瞳がまっすぐに私を捉え、眩しそうに目を細める。期待に胸を膨らませた私に、祖父は穏やかに言った。
「どちらさんですかねぇ」
聞き慣れた声、見慣れた顔。それなのに、中身は全くの別人になってしまったかのようだった。「え」というかすれた声が漏れたが、祖父はそれに気づかない。ただ、無垢な子どものような笑みを浮かべているだけだ。背中に冷たい汗がにじみ、手に持った紙袋を強く握りしめた。私が、大好きな祖父の中から完全に消えてしまった事実が、たまらなく恐ろしかった。
立ち尽くす私に、祖父は「暑いからお茶でも飲んでいくかい?」と、かつての優しさで微笑みかけた。それが余計に悲しかった。この人は今、私をただの「通行人A」として扱っている。そう思うと恐怖と喪失感で震えが止まらなくなった。「大丈夫です」と声を振り絞り、私はその場から逃げた。大好きだった祖父のまま、心に閉じ込めておきたくて、逃げた。
一年半後、浪人中の私の受験三日前に祖父は亡くなった。あの日、逃げ出したのが、結局、最後の対面になってしまった。
私は今も、毎年命日に手作りクッキーをお供えしている。「逃げてごめんね、会いたいよ」と何度も心の中で繰り返しながら。
祖父は、天国で私を思い出してくれているだろうか。もしそうなら、今度はもう逃げたりしないから、もう一度、私の名前を呼んでほしい。あの頃と同じ優しい笑顔で、私のクッキーを「おいしい」と言って食べてほしい。今日もクッキーを焼くたび、私はもう一度名前を呼ばれる準備をしている。
(了)