第55回「小説でもどうぞ」選外佳作 帰郷 味噌醤一郎


第55回結果発表
課 題
コンテスト
※応募数358編
選外佳作
帰郷 味噌醬一郎
帰郷 味噌醬一郎
二十五歳で日本に渡り、そこで有名中華料理店の仕事を得て、結婚し、子供ができた。その間、一度も国に帰ることなく三十年が経った。両親は渡航前に亡くなっているし、一人っ子政策のおかげで兄弟なんていない。帰る理由がなければ足は遠のく。
そんな僕が今、故郷である山東省の地に立っている。
河北省に近い内陸部の小さな村が僕の生まれ故郷だったが、貧しい農村だった昔の面影はもうなかった。町には高い鉄筋の建物が並び、交通量も多い。僕が生まれた家も当然のようにもうそこにはなかった。多分目の前の広い自動車専用道路の何処かに、かつておくるみにくるまれた僕と、その顔を覗き込む両親の笑顔があったはずだ。
でも、郷愁に浸るのが今回の旅の目的ではない。僕はそこからタクシーをチャーターして、六歳の夏、父と行った森を目指したのだった。しかし。
「ここ?」
「はい。見ての通りです」
今年二十六歳だというドライバーの張君は申し訳なさそうに言った。あの日、僕が父と一緒に分け入った豊かな森は、一面のメガソーラーと化していたのだ。郷愁に浸るのが今回の旅の目的ではないが、これでは僕の本当の目的も果たせない。流石に僕は茫然とした。
「先生。山東省は確かに紀元前六世紀、餃子が初めて食べられた場所。でも今さら、野生の餃子を探そうなんて。何世紀も前の人間の戯言じゃ」
「いや、僕が子供の頃、ここにはいたんだ、野生の餃子が。餃子の木に集まってた。僕は見た。採った。それを食べた」
僕は父とのあの夏の日の森を思い起こした。
ここは父の故郷だった。まだ朝日の登る前、僕達は家を出て、前の日の夕方、幹に砂糖水を塗っておいた餃子の木の前に立っていた。
「どうだ、これが野生の餃子だよ、東平。本物を見るのは初めてだよね」
「うん。すごい。きれい」
寸胴で純白の餃子たちはその大きなハート形の羽を畳み、砂糖に群がって一心に木の幹を舐めていた。その数、二十から三十匹。町の露店や食堂、家庭でも餃子は食べられるがそれは加工されたもの。野生の餃子はなかなか味わえるものではない。この日は父が子供の頃に通った秘密の場所へ案内してくれたのだった。
「絶対秘密だからな。母さんにも」
「うん」
餃子は、三年間幼虫として土の中で暮らした後、夏の訪れとともに土からはい出し、脱皮して、成虫となる。成虫として生きるのはわずか十日。彼らはその短い時間の中で恋をし、パートナーを見つけ、交尾をし、土の中に卵を産むのだった。白くて広い羽を広げ彼らが飛ぶ姿は、古い文献の中だけのものだと多くの人に思われていたが、父は、彼らが生息する秘密の場所を知っていたのだ。張君が僕に声をかけた。
「先生。先生は日本の大きな中華料理店の料理長ですよね。自分でネタを練って包んだ餃子の方がおいしいんじゃないですか?」
「それじゃ駄目なんだ、今回は。一番のものを出さないと。一番」
僕の店は、日本の宇都宮で開かれる世界餃子コンテストに出品することが決まっていた。日本各地ばかりでなく、中国、台湾、モンゴル、ミャンマー、ブータンなどの国も参加する国際的な餃子のコンテスト。僕はそれに際して、今まで食べてきた中で最も自分がおいしいと思った餃子を出品しようと思った。それが他でもない、子供の頃、父と一緒に採った野生の餃子だったのだ、
しかし、その後もこの地に滞在中、野生の餃子は見つからなかった。
この旅は徒労に終わったか、と思い日本へと帰る朝の事だった。
僕の部屋を張君が訪ねて来たのだ。
「これですよね、野生の餃子」
「え? 一体どこで」
彼は偶然、同僚の家に餃子の木が生えていることを知り、早速今朝、野生の餃子を二十匹ばかり捕まえて持ってきてくれたのだ。籠の中でバタつく餃子たち。私は餃子を彼から買い取った。まさかこんなタイミングで手に入るとは思わなかった。
「食べてみようよ。少し」
「いいんですか? コンテストに出すんじゃ」
「食べてみたいよね」
「はい」
こうして私たちはフロントから電熱器と鍋、包丁を借りて、餃子二個ばかりの調理を始めた。日本で言う水餃子だ。
「羽の部分は食べられないんだ。この体の上面から左右に出てる大きい羽を切るでしょ。そうすると」
「あ。餃子になった。俺たちが普通に食べてるのと同じ」
今世の中に出回っている餃子は、この羽を切り取った野生の餃子の形を模したものだと、僕は父から聞いた。張君が先に醤油につけてそれを味見した。
「う」
「どうした?」
神妙な彼の顔を見ながら僕も餃子を口に入れた。
「う」
それはあの日、父と一緒に食べた今までで一番おいしい餃子のはずだった。そして、この餃子の味はあの日と同じだった。しかし。
「おいしくない」
どうしてもおいしく感じられない。それはそうだ。これは虫だ。なんであの夏の日、僕はこれがおいしいと感じたのだろう。
僕は後悔した。祖国を離れ日本へ行ったことをではない。僕は野生の餃子を求めに故郷へ戻ってきたことを後悔したのだ。
六歳のときに父と一緒に採った野生の餃子が今まで食べた中で最もおいしかった餃子。その記憶を持ったままの僕でいたかった。今まで輝かしい夏の記憶の中にとどめられていた父の面影が、急に遠くなった気がした。
僕はこれをコンテストに出すことをあきらめた。
そして、二度と祖国の土は踏むまいと心に決めたのだ。
思い出はもう何も失いたくないから。
(了)