第56回「小説でもどうぞ」佳作 彼女の真似事 ハシモトアツシ


第56回結果発表
課 題
模倣
※応募数392編
ハシモトアツシ
クローゼットを開けると、いつもの匂いがふわりと鼻先を撫でた。
ルームフレグランスと香水を混ぜた、少女のような甘さの奥にかすかな青さが残る匂い。制服のブレザーとスカートには、その匂いがしっかりと染みついている。
ハンガーからそれらを外し、いつも通りの手順で身につける。スカートのホックに指をかけた瞬間、わずかな抵抗を感じた。
「……キツくなったな」
思わず漏れた独り言に自分で苦笑する。少し腹を引っ込め、無理やりホックを留める。ここ最近、ふるさと納税で届いたもつ煮を晩酌のたびに食べていたせいだろう。
ブレザーに袖を通し、少しパーマのかかったセミロングの黒髪のカツラをかぶってから姿見の前に立つ。剃り跡を隠すためにやや濃く塗ったファンデーション、詰め込んだ肉で不自然に膨らんだシルエット、スカートから覗くずんぐりとした脚。
よく言えば、場末のニューハーフバーの不人気キャスト。悪く言えば、明らかな不審者。すっかり見慣れた自分の姿がそこにあった。
「……まあ、こんなもんか」
小さく息を吐き、視線を逸らす。見ているほど不格好に見えてくる。だから、もう見ない。
覚悟を決めるようにローファーを履いて玄関の扉を開けた。
日が傾きかけた夕暮れ。薄暗さで多少は誤魔化せないかと期待したが、少し歩いただけで視線が集まっているのを感じる。
近所の主婦が、買い物袋を提げたまま露骨にこちらを見ている。すぐに目を逸らすが、気になって仕方がないといった様子で、またちらりと振り返る。通りすがりの学生たちは、すれ違いざまに笑いを堪えきれず、吹き出した。
「なにあれ」「やば……」
背中越しに聞こえる声は、わざと小さくしているつもりでも、十分すぎるほど届く。
小学生に至っては遠慮がない。
「変態!」「キモっ!」
真正面から投げつけられる言葉に、足を止めそうになる。だが、止まらない。止まってしまえば、余計に目立つだけだ。こうした反応には、もう慣れている。
慣れている――と、自分に言い聞かせているだけかもしれないが。
駅前は今日も人で溢れていた。遊んでいる学生、買い物帰りの主婦、仕事帰りのサラリーマン。雑多な人の流れの中、地元で知られる歴史人物の銅像の前だけは、少し開けた空間になっている。
そして、その近く。
植え込みの前に置かれた古びた木製のベンチに、彼はいた。
大柄な体を窮屈そうに収め、どこか気怠げに座っている。がっしりとした肩幅、無骨な骨格。野性味すら感じさせるその風貌は、周囲の男たちとは明らかに違っていた。
その風貌のせいか、あるいは単なる好奇心か、数人の女子高生が彼を囲んでいる。
「ねえ、どこから来たの? 暇なら遊ばない?」
明るく、軽い声。だが、彼はちらりとも彼女たちを見ない。
スマートフォンを触るでもなく、イヤホンをするでもなく、ただ、誰かを待っているように一点を見つめている。
「おまたせ、レン。帰るよ」
私が声をかけた瞬間、空気が変わった。女子高生たちの視線が一斉にこちらへ向く。そして、わずかな沈黙のあと、小さな悲鳴が上がった。
「ヤダ、誰コイツ?」
「うわっ……変態じゃん」
露骨な嫌悪。距離を取るように彼女たちがあとずさるが、そんなことはどうでもよかった。
レンは、こちらを見た瞬間、ぱっと表情を輝かせた。まるで子犬のように、嬉しさを隠しきれない顔で駆け寄ってくる。
その様子に、周囲がざわつく。異様な組み合わせだと、誰もが思ったのだろう。
私は構わず歩き出す。レンはぴたりと横に並び、歩調を合わせてくる。時折、こちらを見ては、嬉しそうに口元を緩める。
その仕草に、胸の奥が少しだけ軽くなる。
――これでいい。これで。
家に着くと、すぐに制服を脱ぎ捨て、シャワーを浴びる。化粧を落とし、汗と緊張を洗い流す。スウェットに着替えてリビングに戻ると、彼がちらりとこちらに向かって歩いてくる。
「おかえり、レン」
声をかけるが、全く反応することなく私の前を通り過ぎていく。相変わらず、彼にとって飼い主以外はすべてどうでもいい存在なのだろう。
彼は私がさっき脱ぎ捨てた制服の上に丸くなり、鼻先を押しつけて、しきりに匂いを嗅いでいる。
何度も、何度も、確かめるように。
今日も朝からずっと駅前で待っていたのだろう。疲れているはずだ。それでも帰ろうとしなかったのは、彼女を待っていたからだ。やがて、安心したように目を閉じる。そのまま、ゆっくりと寝息を立て始めた。
迎えに来てくれた、と信じているのだろう。
私はその様子をしばらく見つめ、それから静かに仏壇の前へ向かった。正座をし、手を合わせる。
「紗耶香、レンは今日も元気だよ」
声に出すと、不思議と落ち着く。
「約束は守ってる……安心してくれ」
視線の先、遺影の中の紗耶香は、変わらない笑顔でこちらを見ていた。
(了)