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第56回「小説でもどうぞ」選外佳作 俺は野良である 早月雪華

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小説
小説でもどうぞ
第56回結果発表
課 題

模倣

※応募数392編
選外佳作 

俺は野良である 
早月雪華

 俺は野良だ。名前はないが、喧嘩傷がある。目の上に一本、耳の先に欠けがある。野良猫の傷は勲章だ。家猫のツルツルの毛並みは平和のなれの果てであって、武勇伝ではない。
 その日も俺は、いつものように住宅街をふらついていた。人間の家ってやつは、外から見るとただの箱なのに、中からはうまそうな匂いが漏れる。俺は一歩だけ、その家の中に入った。ええと……すぐに出るつもりだったのだ。が、陽だまりのカーペットがやわらかくて、腹の下が妙に安心したのである。
「みゃーちゃん!」
 上から降ってきた声で、背中の毛が逆立つ。子どもの女の声だ。逃げる間もなく、俺はそいつに抱き上げられる。
「ママ! みゃーちゃん、かえってきた!」
「こら、走らない。……あら、猫?」
 こっちは大人の女の声だ。
「みゃーちゃん、おかえり!」
「その猫は、みーちゃんじゃないよ」
 しかし大人の女の訂正など耳に入らないらしく、子どもの女は俺を〝みゃーちゃん〟と呼び続ける。ついでに撫でる。撫でる撫でる。俺は反射で、口を開きかけた。
「みゃーちゃんは、かまなかった」
 ん? 子どもの女。今、なんて言った?
 俺は口を閉じた。噛まない。いや、噛める。噛めるけど、噛まない。俺は今、そう決めたのである。子どもの女は笑った。
「やっぱり、みゃーちゃんだ!」
 俺が思うに、こいつ、本当は〝みーちゃん〟と呼びたいのだ。が、舌が追いついてない。
 大人の女は、俺たちの前に皿を置いた。魚っぽい匂いもするし、肉っぽい匂いもする。これは栄養というやつだ。俺はよだれが出た。
「みゃーちゃんは、すわってたべてたよ」
 子どもの女は、俺をひょいと床に下ろす。……知らんが。とりあえず、座ってみる。前足を揃える。背中を丸める。それから、ようやく皿に顔を寄せた。食う。食った。うまい。うまいのである。
「みーちゃんも、この場所が好きだったわね」
 湿った声で大人の女が呟く。その視線の先、棚の上に写真立てがあった。そこに映っている猫が、こっちを見ている。まるまると太った、賢そうな猫だ。こいつがみーちゃんというやつか。俺とは似ても似つかない。俺の腹は薄いし、尻尾だって先が曲がっている。
 俺は床に少し鼻を近づけながら、座り方を直す。尻をほんのちょっと左。ああ、ここだ。ここがこいつの席らしい。
 翌朝、俺は箱に入れられ、車に乗せられた。
 一泊するつもりはなかったのだが、世の中ままならん。逃げようと思えば逃げられた。しかし、子どもの女が箱をのぞき込みながら言ったのだ。
「みゃーちゃんとおんなじだね」
 俺はとりあえず、そのまま座っていた。
 空気が変わる。鼻が混乱する。誰かの冷たい手が俺の首を押さえつける。俺の縄張りはどこだ。俺の匂いの道は。
 俺は細く鳴く。爪を立てて暴れたくなる。
「みゃーちゃんは、びょういんでもいいこだったもん。さいごまで、がんばってたもん」
 注射が来る。針が肉に食い込む。痛い。痛いが、俺はあいつのふりを貫く。今だけ賢い猫でいてやる。子どもの女がそう言うから。つまり、ここで我慢だ。一本。二本。三本。
「いい子ですね。怖いのに、がんばってる」
「ほんとに、みーちゃんみたい」
 大人の女の声がまた湿る。だが、今度は少し笑っているらしい。
 俺は目を閉じた。逃げなかった。
 家に戻り、箱から出される。あの場所へ足が向く。尻をほんのちょっと左。前足を揃える。背中を丸める。ああ、ここだ。
 それから俺はトイレを覚え、爪とぎの場所を覚えた。朝に子どもの女を起こし、夜はとなりで眠る。なんてことはない。あの猫の匂いのとおりにやっただけだ。人間どもはそのたびに大騒ぎをする。飯も出る。
 猫の時間が過ぎるのは早い。季節がいくつか回り、俺は太った。腹が出て、毛も整った。喧嘩傷は消えないが、増えなくなった。窓の外で他の猫が鳴くと、相変わらず返事をしそうになるが、あくびでごまかす。
 俺の呼び名は〝みゃーちゃん〟になった。
 ある日の夕方。俺はいつもの席で丸くなっていた。となりでシュクダイをしていた子どもの女が、ふいに顔を上げた。
「みー……」
 そこで止まった。子どもの女の口が震えた。目が棚の上の写真立てへ行く。写真立ての猫。みーちゃん。俺じゃない猫。賢い猫。
 子どもの女は、すぐ言い直した。
「……みゃーちゃん!」
 子どもの女の手が伸びてくる。俺は先の曲がった尻尾で、その手のひらを軽く叩く。
 今日も俺は俺のまま、みゃーちゃんとしてここにいる。〝みーちゃん〟のやり方で。噛むより先に牙を引っ込める術でやっていく。皿の前で座って待つ。粗相しない。暴れない。それでいい。
 腹が満ちて、女たちが喜ぶなら、だいたいのことはどうでもいいのである。
(了)