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第56回「小説でもどうぞ」選外佳作 君をなぞる 秋也

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小説
小説でもどうぞ
第56回結果発表
課 題

模倣

※応募数392編
選外佳作 

君をなぞる 
秋也

 コーヒーを淹れてデスクに戻る。机の端に昨日の付箋が一枚だけ残っていて、紙コップを置く場所に少し迷った。
 ちょうど課長の成瀬が出社したところだった。
「課長、今日も顔面の調子、絶好調っすね」
 向かいの席の真野が、朝からやたら爽やかな笑顔を向けている。成瀬は鞄を椅子に下ろすと、ちらりと鋭い視線を返した。
「真野君、素直に“今日も綺麗ですね”って言っていいんだよ」
「それ、セクハラになっちゃいますよ。課長」
「え、私が?サッサ、聞いた?真野がひどい。こんな後輩どう思う?」
 俺をあだ名で呼んだ成瀬が、綺麗に描かれた眉を歪ませる。四十代のはずだが、とてもそうは見えない。ひとりだけ時間が止まったように美しさを保っている。
「そうですね。確かにセクハラになるかもしれません」
 わざと真面目な顔でそう返すと、真野が噴き出した。
「笹野さん、さすが俺の先輩です」
 この軽いイケメンは、たちが悪いことに仕事もできる。
「はいはい。そろそろ朝礼始めるよ」
 コーヒーの湯気が冷める前に、成瀬の声が空気を切った。

 大きな案件がひと段落した日、真野と飲みに行くことになった。残業続きでくたくただったが、ようやく片がついたと思うとテンションも上がる。
 会社から少し離れた居酒屋に入り、地鶏をつつきながらハイルボールを流し込んだ。
「真野、本当に成瀬さんのこと好きだよな」
「え、バレてました? まあ……そうっすね。バレないようにしてたつもりなんですけど、さすがサッサさん」
 驚いた顔は一瞬で、真野はあっさり白状した。酔っているのか、照れたように笑っている。
「あの距離で毎日見てればな。他のやつは気づいてないんじゃないかな。お前、隠すの上手いし」
 真野も成瀬も社内じゃ目立つ。真野が成瀬以外にも軽口を叩くのは、余計な噂を立てられないためだろう。
「一応、気使ってるんで」
 真野が絞ったレモンから、種がひとつ皿に転がった。
「で、成瀬さん結婚してるじゃん。年も離れてるし。それでも好きなんだ?」
「好きっすね。頭もよくて仕事もできて、美人だし。かわいいところもあるじゃないですか。最高っすよ。はあー、成瀬さん離婚しないかなあ」
 何杯目かのハイボールを飲みながら、真野が遠い目をする。
「思ったより本気じゃん。難儀だねえ。成瀬さんじゃなきゃ、お前なら誰でも落とせそうなのに。総務の小林ちゃんとか、お前のこと絶対好きだろ」
「無理っすね。社内には大事な成瀬さんいるんで。遊ぶなら社外で遊びますよ。俺も性欲はあるんで」
 にやっと笑った真野の顔は、昼にはない色気を含んでいた。
「笹野さんこそ、正統派な顔して、彼女作る気ないんすか?」
「正統派? 彼女ならいるよ。イマジナリー彼女」
「イマジナリー彼女って、サッサさん涼しい顔してヤバいっすね」
 飲み物を噴き出しそうになった真野が、涙目になるほど笑っている。
「ちなみにどんな彼女なんですか?」
「優しくて巨乳でツンデレ」
「笹野さん、俺以上に難儀っすよ」
 ――確かに。声には出さなかった。真野には笑って返した。

 真野と解散し、部屋に帰ったのは午前一時近くだった。冷えた空気の中、暖房もつけずベッドに横になる。酔いと疲労が一気に回った。
 思い出したようにポケットから付箋を取り出す。くしゃくしゃになったそれには、今となっては何でもない業務連絡が書かれていた。真野の走り書きだ。
 眠りに落ちかけた体を無理に起こし、引き出しからノートを取り出して、付箋を丁寧に挟む。もう習慣になっていた。ノートにはメモや付箋が何十ページにもわたって貼り付けてある。
 指先で紙の質感を確かめた。文字や文章の癖はすべて覚えてしまった。何十回、いや何百回と目でなぞっている。
 ベッドに戻って目を閉じる。俺のイマジナリー恋人はこれを知ったらなんて言うだろう。
「サッサさん、涼しい顔して気持ち悪いっすよ」
 そんな風に軽蔑されるか。いや、イマジナリー恋人ぐらいには受け入れてほしい。
「かわいいところあるんすね」
 そう言って、にやっと笑って、キスのひとつでもしてくれるだろう。
 薄い唇の隙間から白い歯がのぞく。それを舌でなぞるのを想像する。
 唇の形、歯の並び。気が付けば、それを描くように舌を動かしていた。
 ――本当に難儀だな。
 いつの間にか、沼に沈むように眠っていた。

 翌週の月曜日、社内では変わらず慌ただしく時間が流れていた。
 前を歩いていた成瀬が、かがんで何かを拾う。下着の線ひとつ見せないところまで、この女は気を使っているのだろう。手を抜かない女だ。
「これ、真野の字?」
 成瀬はそう言って、拾ったメモをひらひらと差し出した。
「はい、落としもの」
 受け取った真野が、メモ用紙を確認した。
「これ、俺じゃないっす。笹野さんじゃないですか?」
 デスクトップ越しに受け取ると、確かに俺の書いたものだった。
「サッサのだった? 前は見分けられたのに。二人とも似たような字で、見分けがつかなくなった」
 笑って言う成瀬に「見分けてくださいよ」と真野も笑っていた。
 その唇の形を、口の中でそっと舌がなぞった。
(了)