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第56回「小説でもどうぞ」選外佳作 赤信号なんて怖くない 稲尾れい

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小説
小説でもどうぞ
第56回結果発表
課 題

模倣

※応募数392編
選外佳作 

赤信号なんか怖くない 
稲尾れい

 前方に見える歩行者用信号機は私が横断歩道に辿り着くまであと十メートル程度、というところで点滅を始めると、間もなく赤に変わった。横断歩道の手前に立った私は左右を見回した。まっすぐに続いている見通しの良い車道には今、こちらに向かって走ってくる自動車や自転車の姿はなかった。
 住宅街にある、十歩も進めば向こう側に着くような横断歩道だ。いつもだったら赤信号を無視して小走りでササっと渡ってしまったかもしれない。仕事からの帰り道で特に急ぐ用事もないけれど、早いところ部屋に帰ってお化粧を落としてくつろぎたかった。三寒四温の三月下旬、早まってたんすの奥から出したばかりの春物の薄いコートは少し肌寒くもあった。
 それでも足を踏み出さなかったのは、私より先に横断歩道の手前できちっと停まった子供用自転車のせいだ。自転車にまたがっているのは小学校低学年くらいの少年で、左足を地面について向こう側の信号機をじっと見上げていた。その交通ルール遵守の姿勢につられるように、私の背筋も心もち伸びる。
『子供が真似したらどうするんだ』ととがめられるような横着は慎まなければ、と思った。
 否、私がこの少年にならって今一度交通ルールを守るのだ。もしかしたら彼にもいずれ、私のようにササっと赤信号を渡るようになってしまう日が訪れるのかもしれない。用事や合理性や時間対効果を理由に、或いはそんなことをいちいち考えることもなく。けれど今はまだ、信号を守れる自分であることを大切にしていてほしい。
 いつの間にか横断歩道の向こう側に立っていた初老の男性がこちらに向かっておもむろに手招きを始めたのは、その時だった。
「おーいマナト! こっちにおいで!」
 少年の身内なのか、男性は大声でしきりに呼び掛けている。
「じいちゃん」小さく呟き、少年は向こう側の信号機とその下の男性の顔とを交互に見てはもじもじとためらっている様子だ。
「大丈夫だ! じいじが見ていてやるから渡ってこい!」
 男性はなおも励ますように声を張ってくる。やめてくれよ、と私は思わず心の中で叫んで相手の顔をにらんだ。けれど私の密かな願いもむなしく、少年はとうとう地面についていた左足を蹴り上げると自転車をふらふら前進させて車道の向こう側に行ってしまった。
 辿り着いた少年の肩に男性がポンと手を置いた。そのまま徐行する自転車と並んで歩き去ってゆく。
「よしよし、大丈夫だっただろう?」
 満足気に言う声が微かに聞こえてきた。
 程なくして歩行者用信号機は青に変わった。誰も見ていない横断歩道の真ん中を私はゆっくりと端正に渡っていった。春先の風に強く吹かれ、冷たさが身に染みた。

 それから数日後の朝、私は職場の最寄り駅前の横断歩道で赤信号を待っていた。あの住宅街の横断歩道と比べれば二倍以上の長さで、待ち時間もそれに比例して長い。歩行者用信号機には残り時間を示す目盛りが表示される仕組みになっている。
 左右からは一定間隔で自動車が来ては目の前を横切ってゆく。時折そのすき間を縫うように、重そうなリュック型ビジネスバッグを背負った男性やヒールのある靴を履いた女性が危なっかしく向こう側へ、もしくはこちら側へと駆け抜けてゆくのを見ることもあった。
 赤信号の目盛りが減ってゆくのを待つあいだ、一羽のカラスが私の足元を行ったり来たりしていた。羽をきっちり畳んだまま横断歩道の上を両脚でちょんちょんと跳ねて、向こう側に渡ってゆくかと思いきや左右から自動車が近付く気配があると元いた場所まで跳ねて戻ってくることを繰り返している。一度はせっかく道路の真ん中あたりまで到達したのに、そのまま向こう側を目指すのではなく同じ手間を掛けてわざわざこちら側に戻ってきてしまった。
 波打ち際で足をさらわれないように波と追いかけっこをしている子供みたいだな、と最初の内は思いながら目で追っていた。けれどふと、もしかしてこれは横断歩道を渡る人間の真似をしているのだろうか、という考えが浮かんだ。大人のカラスには人間の小学校低学年に相当する知能が備わっていると聞いたことがある。先日の自転車の少年のことを連想し、何だか居たたまれないような気持ちになった。人間の営みは、人間が想像する以上にするどく観察されているのかもしれない。
 このカラスはもっと具体的に、『赤信号の』横断歩道を渡る人間を真似ているのかもしれない、と想像する。用事や合理性や時間対効果のためではなく、ただ遊ぶために。
 歩行者用信号機がようやく青に変わった。足を止めていた皆が動き出す。
 どうするんだろう、と動向をうかがう間もなく、カラスは翼を大きく広げると私の足元からあっさりと飛び立った。そして今度は歩行者用信号機のてっぺんにふわりと止まり、各々横断歩道を渡ってゆく私達人間の姿を見下ろしていた。
(了)