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第15回「小説でもどうぞ」佳作 コイントス/牧野冴

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第15回結果発表
課 題

表と裏

※応募数212編
「コイントス」牧野冴
「もうお前、コイントスで決めれば?」  出張先で適当に入った個人経営の居酒屋はなかなかの当たりで、カウンターに並んで座る僕と西野の酒はどんどん進んでいた。大阪では普段お目にかかることのない刺身が美味い。いつの間にか、来たときはぱらぱらと降っていた雨の音が聞こえなくなったな、と外を見ると、どうやら雨は雪に変わりはじめていた。東北には一足早く冬が来つつあるようだ。
「ていうか、何をそんなに迷ってんの? 美人で優しくて実家が金持ちなんて、今時お見合いでそんなアタリ引くことないで。羨ましい、おれが代わってほしいくらいやわ」
 財布から百円玉を出して指で弄ぶ西野に、それはそうなんやけどなあ、と曖昧に答え、僕はおちょこを傾ける。大昔の話である。もう三十歳近いのに、こんなこと恥ずかしくてとても言えない。いまだに忘れられない人がいるなんて。
 雪とは付き合っていたわけですらなかった。初めて会ったのは大学一年生のことだった。冷房の効きの悪い大学図書館で、柄にもなくテスト勉強に苦しんでいた僕の足元に、緑色のストライプのシャープペンシルが転がってきた。反射的に拾って顔を上げると、柔らかそうな黒髪を耳にかけながら、すみません、と困ったように笑った女の子と目が合った。
 一目惚れと言い切るほどの衝動ではなかった。実際、その日は名前も聞かずに家に帰った。しかし僕はそれからずっと、図書館に行くたびに彼女の姿を探して声をかけてしまうのだった。大学生活は四年間もあり、雪とはくだらない話をたくさんした。でも、決定的なことはなかなか言えなかった。四年間のうちに、僕は彼女を二人作った。どちらも向こうからの告白だ。可愛いな、と思って付き合い始めたはずだったが、今となってはあまり顔を思い出せない。彼女ができたんだよ、と言った時の、そう、と目を伏せた雪の顔は、はっきりと思いだせるのに。
「ねえ、コイントスで決めるのがいいですよね。お姉さんはどう思います?」
 悪酔いした西野がカウンターの店員に声をかける。おいやめろよ、すみませんね同僚が、と言いかけて、僕はそのまま言葉を失った。
 雪だ。いや、雪によく似ている。アーモンド形の目に少し小ぶりな鼻。しかし、金髪の短い髪も濃いメイクも記憶の中の雪とは程遠く、僕は自信をもって本人だと言い切ることができなかった。アルコールの回った視界には彼女は二重に映り、僕は思わず目を擦る。
「いいですねぇ。コイントスって意外と合理的らしいですよぉ」
 少し鼻にかかった低い声が耳をくすぐり、懐かしさを覚えた。が、語尾を伸ばした、甘えるような喋り方は記憶の中の雪とは異なる。
「結果を見る一瞬、こう、重ねた右手が外れる瞬間に」
 と彼女はジェスチャーをする。雪も細長いきれいな指をしていた。
「例えば、『どうか表であってくれ』って反射的に思うやないですかぁ。そこで人って自分の本心に気づくらしいです」
 へらりと笑った顔は雪に似ていない。
「お、お姉さんも出身関西? おれは大阪やねんけど」
「京都です。そっちのお兄さんもですか?」
 身を乗り出した西野を微笑んで軽くいなし、僕をじっと見つめる目は、瞬きもしていない。
 雪はとても恥ずかしがり屋だった。調子に乗った僕が手に触れると、耳まで真っ赤にしてすぐにその手を引っ込めた。私、手にコンプレックスがあって。そう言っていたことは覚えているのだが、それがなぜだったのかは思い出せない。そんなことどうでもよくなるくらい、白くて華奢で、美しい手だった。
 あの日、僕がもう一歩踏み出せていれば。冬が来るたび、もう何回そう思っただろう。彼女が引っ越すことになったと告げた東北の県は、今思うと非現実的な距離ではなかった。その後悔も、回を重ねるごとに儀式めいた風物詩になり、自分でもどのくらい本気なのかわからなくなった。その時々に付き合っていた彼女の髪を撫でながら、一度もさわることのなかった雪の黒髪を思い出していた。
 パチン、という小さな音で現実に引き戻される。どうやら西野の百円玉で、彼女がコイントスをしたようだ。両手を重ねた彼女の前で、西野がにやにやとこちらを見ている。
「ほら、お前今、表と裏どっちだと思った?」
 からかうような西野の声を聴きながら、僕は唐突に思い出していた。ほくろだ。雪の左手の甲には大きな星形のほくろがあった。それがコンプレックスだと言っていた。どうしてさっき思い出せなかったんだろう。彼女の左手の甲は、百円玉ごと右手にぴっちりと押さえられていて、確認することができない。
「ねえ、どっちやと思います?」
 彼女の白い右手が、左手から離れた。
(了)