公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 選外佳作 オーバーライト/浦ひさ枝

タグ
作文・エッセイ
投稿する
小説でもどうぞ
選外佳作
「オーバーライト」
浦ひさ枝
「約束というものは、あんまり良いものだとは思わないんです」
 女の幽霊は言った。
「だって、たいていの約束って果たされないじゃないですか。そんなものハナからしなきゃいいのにって思いますけどね。まぁ、私の個人的な考えですけど」
 幽霊は私の部屋の片隅で体育座りをして語る。長い黒髪に白いワンピース姿が、よく怪談話で映像化される典型的な幽霊のそれだ。二十代前半に見えるので、年は私と変わらないだろう。いわゆる霊感が強い私はこの手のことがたまにある。
「だから、最後に約束がしたいんです」
 何だか矛盾した話だと思いつつ、黙って聞いていた。
 幽霊は数日前に部屋に現れ、私の様子を窺うようにしていたが、昨日話し始めた。世間話がほとんどである。特に害がなさそうなので、会話することにも慣れてしまった。外を歩いていて、どこからか憑けてきてしまったのだろうが、そう長くここに居られても困る。成仏してもらいたいが、さてどうするべきか。
「約束してもらったら、ちゃんとあちらに行きますから」
 気持ちを読んでいたかのように、そう幽霊が言った。
「約束ですか」
 幽霊と約束だなんて自分の身に何が起こるか分からない。恐ろしいことを言うんだな、と少し身構える。
「あ、大丈夫ですよ。正直、約束は何でもいいんです。ただ、知らないあなたが何かしてくれるだけで」
 こちらを向いて両手を広げ、他意はないと身振りで示す。一応、向こうも怖がられないように気を遣っているようだ。
「何でもいいんですか?」
「そう、私はただ、約束のイメージを上書きして、あちらに行きたいんです」
 約束は良いものではない。そう言っていた。生前に約束を破られたのだろうか。確かに約束なんて曖昧で、信じるに足りるものか私には分からない。
「それと、きっかけです。あちらへ渡るきっかけ。少し彷徨ってしまうと、なかなか飛び立つ機会というか、そういうものが難しいというか」
「そういうものなんですか」
「何かきっかけがあれば行けそうな気がするんです。まぁ、気持ちの問題かもしれません」
 いずれにしろ生きている間は分からないことである。
「あなたが約束を果たしてくれたら、私は、あぁ、この世の中も捨てたもんじゃなかったかもと思って、あちらへ行けるんです。最後にちょっとした約束を果たしてくれた知らない人がいたってね」

 私は幽霊の約束通り、彼女の眠る、いや彼女がかえっていった海へ行く。
「間違っても花なんか供えないでくださいね。それだったら約束じゃなくて、ただの供養だから」
 そう念を押された。言われなければきっと花を買っていただろう。彼女がどうして幽霊になったのかは分からない。海で弔われたのかも、分からない。
 ただ、今は海にかえったの、と言った。
 人の少ない夕暮れの海岸。晩秋ではさすがに風が冷たい。
 彼女との約束は「海でお茶でもしましょう」だった。砂浜へ降りる階段に座り、持ってきたボトルからホットコーヒーを二つのコップに注ぐ。一つは傍らに置き、一つは自分の手に持った。手から伝わる温かさが寒さを緩ませた。
「良いコーヒーにしてくれたんですね」
 どこからか声だけが聞こえた。気配もほとんど感じられない。
「折角だから家にあった一番良いのを淹れてきました」
 少しだけ、笑ったような気配がした。
 薫りの良いコーヒーを一口飲むと、また寒さが緩んでいく。ふふふ、と傍らに置いたコーヒーの辺りから聞こえたような気がした。
「ちょっと気分が軽くなりました。上書き完了です、ありがとう。光のほうへ行ってみますね」
 一瞬ふわりと風が吹く。
「それと、あなたの幸せを祈ります」
 近いような遠いような声がして、それきりとなった。
 赤と橙に染まった水平線にもうすぐ夕日が沈んでいく。夜が始まろうとしていく中で、太陽に向かう光が道となってきらきらと波を渡っていた。
(了)