公募/コンテスト/コンペ情報なら「Koubo」

W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 選外佳作 窓に映る姿/吉田猫

タグ
作文・エッセイ
投稿する
小説でもどうぞ
選外佳作
「窓に映る姿」
吉田猫
 夜中に目が覚めて、忘れかけていた大切なことをふと思い出す。そんなことがよく起きる。おかげで仕事での大きなミスを回避できたこともあった。人間の心は不思議なものだ、潜在意識が遠回りして大事なことを伝えようとしているのか、と私は考えていたのだが。
 その日も夜中に目が覚め、あることを思い出した。何故か小学校時代の友人、浅沼君と交わした約束のことだった。
「三十年後にまた会おうよ」
 浅沼君は微笑みながらそう言ったのだ。
 浅沼君? どうして浅沼君のことなんかを思い出したのだろう? 遠い昔の話だ。あいつだって今更憶えちゃいないだろう。転校生で友達もいなくて、私しか話し相手がいない、チビで眼鏡を掛けた浅沼君……。
 他の友人と遊ぶのにじゃまだと感じ、面倒臭くなってたまに冷たくしたこともあったけれど、浅沼君は何故か私の隣から離れようともしなかった。そんな浅沼君があるとき父親の仕事の事情でまた転校するのだと言う。
「三十年後にまた会おうよ。僕は政治家になっているから」
 浅沼君は思わぬことを言った。
「よし、じゃあ俺は社長になってるよ」
 ほんの軽い気持ちで答えたことを思い出した。
 私は布団の中でぼんやりと考えた。あれは三月の…… あの日だったから…… もしかして明日じゃないか? そうだ三十年後の約束の日は明日だったのだ! 約束の場所は東京にできたばかりで話題になっていた高層ビルの展望階にしようと浅沼君は言ったはずだ。
 夜中にそんなことを突然思い出して体が熱くなり、私は少し汗ばんだしまったのだ。

 翌日、午後からの仕事に時間の余裕があった私は馬鹿げていると思いながらも何かに引かれるようにその高層ビルへと向かった。
 展望階からの眺めは小雨模様のため薄曇りに隠れて下界が微かに見える程度だった。生憎の天候のせいか客は少なく閑散とした展望階には小さな音量で管弦楽が流れていた。
 そのとき一人の背の高い男性が通路をこちらに向かって来ることに気が付いた。その男性はきっちりとしたスーツを着込み隙のない身のこなしが美しく見えた。そして近づくにつれ、その眼鏡越しの目は子供のころいつも隣にいたまぎれもない浅沼君のそれだとわかったのだ。驚きで心が震えるようだった。
 その男性は驚く私の前で立ち止まると本当の政治家のように両手で私の右手を掴んだ。
「やあ、ひさしぶりだね」
 嬉しそうに微笑む。
「そうだな、三十年ぶりだ」
 私は微かに面影が残る大人になった浅沼君の顔を見つめた。
 浅沼君はある国会議員の秘書をしている、と言う。
「近いうちに選挙に出るつもりで、今は先生のところで修業中なんだ」
「そうか凄いな。俺は社長になれなかったよ」
「いや、まだまだこれからだよ、お互い」
 浅沼君は笑った。そしてこう言った。
「約束を憶えていてくれて、ありがとう」
 私たちはお茶でも飲もうと回廊の反対側にある喫茶店へと向かった。驚きが収まらない私は心を落ち着けようと少しだけ彼の前を歩いた。数歩進むと一瞬冷静な気持ちが、吹く風のように私を取り巻いた。そして夜中にふと思い出すあの感覚が甦ったのだ。
 小学校を卒業して数年後、家に送られてきた同窓生名簿を見たときのことを急に思い出した。同じクラスの友人たちの名前に目を通していると、知らない言葉、とともに浅沼君の名前が記されていた。その言葉は意味も分からなかったから気にも留めなかった。意味を知ったのはそれからずいぶん大人になってからだ。だからすっかり忘れていた。いや違う、私は単に浅沼君のことに関心がなかっただけなのだ。その名簿にはこう記されていた。
 物故者 浅沼昭雄
 浅沼君、君は死んでいるじゃないか。
「ねえ、浅沼君!」
 私は振り返りながら彼を呼んだ。当たり前のように浅沼君はそこにいなかった。
「浅沼君!」
 私はもう一度だけ声を出して呼んでみた。返ってくる返事などあるはずもなく、がらんとした展望階には静かに聞こえる管弦楽が空中に浮かんでいるようだった。
 約束を憶えていてくれてありがとう。間違いなく聞いた浅沼君の声が甦ってくる。
 ごめん、俺は忘れていたんだよ。きっと君が呼びかけてくれたんだよな。そうじゃなければ俺は君との約束を忘れたままだったかもしれないよ。でも会えてとても嬉しかったよ。
 声には出さなかったけれど何の違和感もなくその場で私は浅沼君に話しかけた。
 一人取り残された私は窓辺に近づき下界を覗いた。相変わらず都会の街並みは薄い雲の隙間から少し見えるだけだった。外は既に暗くなり始め、ガラス窓に映る姿は私だけ。
 ああ、やはり浅沼君はもういないのだな、と改めて思った。
(了)