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W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 佳作 ハリセンボン・ドリンク/神谷健太

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小説でもどうぞ
「ハリセンボン・ドリンク」神谷健太
 床に正座して反省を示す俺の前に妻がしゃがみ込んだ。
「私を裏切って浮気した罰よ」
 妻は妙に優しい声色でそう告げると、ドンッ、と俺の膝元に荒っぽくグラスを置いた。中でドロドロした真っ赤な液体が波打つ様が透けて見える。唐辛子のスパイシーな香りが鼻を突き、むせかえった。
 これは、ハリセンボン・ドリンク。
 日本で古くから親しまれる〝指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ます〟の歌に着想を得て、約束を破った者を裁く手段として作られたという飲み物だ。唐辛子を始めとした辛い食材がふんだんに入っていて、その名の通り、飲めば口内の至る所を針で刺されるような苦痛に襲われるんだとか。
 市販品のカレールーと同じで辛さがレベル分けされているから、親の言いつけを守らない子供のしつけから不祥事を起こした芸能人の謝罪、公約を果たさなかった政治家の懺悔まで幅広く活用されている。
 もちろん喉を潤すには適さない。修羅場の張り詰めた空気で生唾も出ないくらい俺の喉はカラカラに渇いていたが、それでもグラスに手を伸ばせないでいる。
「ほら遠慮せずに。一気に飲んで」
 妻に促されるもグラスを手に取れない。右手を宙で泳がせるのがやっとだ。
 何せ、目の前のハリセンボン・ドリンクは辛さレベルが最大だ。バラエティ番組で、身体を張って笑いを取るタイプの芸人が、周りからブーイングを浴びながらもとうとうこれを飲まなかったことが記憶に新しい。
『こんなの飲んだら、舌の痛みが引かなくてメシが食べられなくなるし、腹を下して仕事に支障が出ちゃうよ』
 彼がテレビ画面で悲痛に訴える姿を思い出すと、ゾッとして身が震えた。
「さっさと飲めよ。この浮気者」
 妻がさっきまでとは打って変わって低く冷たいトーンで俺を急かした。
 意地でもこれを飲ませるつもりだ。いくら懇願しても徒労に終わるな。
 そう悟った俺は「分かった」と消え入りそうな声で返事をしてグラスを手に取った。
 鼻呼吸をとめて、唇をそっとフチに当てる。それだけで心臓がバクバク暴れ出した。一目惚れした妻とのファーストキスでも、ここまで鼓動が早まることはなかった。
 ドリンクで唇が湿る程度にグラスを傾け、まずは軽く味見しようと僅かに口を開ける。
 中身が一滴だけ舌先に触れた。途端、舌先がぽかぽかと熱を帯びた気がした。その熱は急速に高まり、五秒も経つころには、舌先をライターで炙られていると錯覚するほどに熱くなった。
 汗に涙に鼻水によだれ。顔中に体液を湧き出しながら悶絶する。
「おい、男ならぐいっと飲めよ。次、一気に飲み干さないと許さねぇからな」
 ほんの一滴を口にしただけでこれだぞ。
 妻の容赦ない煽りに言い返そうとしても、獣の咆哮に似た嗚咽が口から漏れ出るばかりだった。
 妻の指示通り、やむなくグラスの中身をいっぺんに喉に流し込む。空のグラスを置くと、パチパチ、と幼いころに好んだ弾けるアメを舐めるような痛みが口いっぱいに走った。そしてやはり五秒後には、バチバチと火花を散らす手持ち花火を口に突っ込まれたように痛みが増した。
 たまらず両手で両頬を覆う。剃り残したヒゲを、頬の内側を貫いて表に出てきた針と勘違いした。正座による足の痺れも忘れて、殺虫スプレーを浴びてひっくり返った虫のごとくのたうち回った。

 どれくらい時間が経っただろうか。口内の痛みがひりつく程度まで収まり、なんとか言葉を発せそうになった。
「これでもう、俺を許してくれるか?」
 身体を起こして、ぐしょぐしょの目元を腕で雑に拭いながら妻に聞く。
「許すよ。そう約束したからね」
 クリアになった視界で捉えた妻は、黒い涙を零していた。メイクを崩して号泣していたようだ。
「あなたはいいよね。舌が痛くても、お腹を壊しても、数日のうちに治るじゃない。約束を破られた私が心に負った傷は、いつ癒えるか分からないどころか、この先癒える保証すらないのに」
 それを聞いて、俺はようやくハッとした。
「……悪かった。もうお前を悲しませない。ここに誓う」
 深々と頭を下げて力強く言った。
(了)