W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 佳作 ヘビ玉/井上菜穂子
「ヘビ玉」井上菜穂子
明け方までの大雨があがり、東の山から朝陽が昇ってきた。真夏の力強い青空が山に囲まれた狭い空にもいっぱいに広がった。
昨夜母が汚したシーツを洗濯機から取り出して、物干しに広げると それだけで全身が汗ばんでくる。
「果歩ちゃんにお願いしたい事があるんだけど、もう起きたかな」
母が居間に置いてあるベッドから庭の私の方を見ながら声を出した。
「おはよう。早起きだね。今日は痛いところない?」
私はつとめて笑顔で答えても、母は
「果歩ちゃんは起きたかしら。お願いしたいことがあるのよ」と言った。
「果歩ちゃんは今日はまだ来てないよ」
「じゃあ、真帆ちゃんは来ているでしょう?」
「真帆ちゃんも来てないよ」
「おかしいわね。『お母さんが家に帰ったらすぐに顔を見に来るからね』って言ったのに。いそがしいのかしら。きっとそのうち来るわよ」と続けながら、また浅い寝息を立て始めた。
余命を宣告され、食事もほとんど摂ることができなくなり、週末だけの外泊を許されている母は、長い闘病生活で家に帰れるこの時間だけを楽しみにしている。辛うじて夢と現実のはざまで生きている母は、住み慣れたこの家はいつだって心地よく、父がいて長女の私がいて、妹の果歩と真帆がいるにぎやかな自宅という時期が一番幸せで、自宅に帰ると思考がその時期へ戻ることほとんどだった。 そのことは私たち三姉妹ともに十分に知っていた。
母の寝息を確認して、私はそっと庭に出た。さっき仏壇の片隅に見つけた「ヘビ玉」を作ろうと思った。今は高校生になった私の息子たちが、幼いころ実家に来るたびにロケット花火や爆竹などと、自宅ではできないような過激な花火で一日中遊んでいたことがつい最近のような気がする。ヘビ玉はきっとその残りだろう
一センチ程度の小さな石炭みたいな黒い円柱の「ヘビ玉」はビニール袋六個入っていた。火をかざすと煙とともに黒い円柱がヘビのように長く伸びる、ただそれだけの花火だ。
私は六個ある「ヘビ玉」を積み上げた。長い長い「ヘビ」を作ろうと思った。
マッチを一本擦るとシュっと燃えて消えてしまった。二本目、三本目も同じだった。火は付き燃え上がるのだが、そのまま軸木に燃え移らない。
自分の額から滴り落ちる汗が、足元の石にシミを作った。
四本目、五本目と二本一緒に擦って、ようやく軸木も燃えたが「ヘビ玉」に近づけても反応はしない。長い年月で湿気っているのだろう。六本目からはマッチ棒を小さく薪のように積み上げて火をつけたが、薪のようには燃え上がらず、小さく燃えて消えていった。
「真帆ちゃんは来た?」
「果歩ちゃんは着いたころかしら?」
母のうつろな声が、居間から届く。
「二人とも今日は来ることはできないみたい。真帆ちゃんは友達とランチ。果歩ちゃんはご主人に遠慮しているみたいよ」
母には聞こえないように、小さな声でつぶやく。
汗が首から胸元へ吹き出すように流れ落ちる。
「尚ちゃんは、今日は遠足の日なんだよね」
「違うよ。遠足は昨日だったじゃない。楽しかったよ。今日は一日中私がずっと一緒にいるから安心して」
そう答えると、母はじっと私の目を小さな目で見て笑う。
「遠足楽しかったんだね。よかった」
あの世とこの世と、過去と現実とが入り混じった母はどんなになっても母であり、抱きしめたくなる。
「トイレに行きたいな」
母をベッドから起き上がらせて、手を引いてトイレに連れていく。腕も指も先週よりも細くなっている。
「ありがとうね」
便座に座るとほっとしたように母が言う。
「なんでもないことだよ。おかあさんちっちゃくなっちゃったし」
私はドアを閉めながら答えると、ドアの向こうから母が問いかける。
「果歩ちゃんはまだこないかな?」
「果歩ちゃんはいないよ。夕べ来たから今日は用事があるから来られないかもしれないね」
「じゃあ真帆ちゃんは来るでしょう?」
「そうだね。きっともうすぐ来るよ」
トイレで母の気が済むまで座らせながら、ドアを挟んで話をする。
「一人でベッドまで行けるから待ってなくていいよ」
「そんなこと言って、病院でも転んだでしょう。今転ぶと入院が長くなっちゃうよ」
「そりゃ大変だ」
そりゃ大変だ、そりゃ大変だ、と歌うように母が便座から動き始める。私はあわててズボンを上げて、手を引いて出て、洗面台で手を洗い、口をすすぎ、ベッドまで手を引く。
横になると痛み止めの麻薬のために目がうつろになり、深い眠りにはいる。
私はティッシュを一枚もって庭に向かった。積み上げてあるマッチ棒の下にティッシュを丸めておいて、火をつけた。
あっという間にティッシュが燃えて、マッチの軸木にも火が付き、「ヘビ玉」が反応した。
小さな塊の「ヘビ玉」からは想像もできないほどの黄土色の煙が立ち上り、黒い塊がのたうち回る蛇となった。
「果歩ちゃんは真帆ちゃんと一緒に来るのかしらね」
母の声が聞こえたような気がした。
蛇はまだ私の足元でのたうちまわっている。
(了)
昨夜母が汚したシーツを洗濯機から取り出して、物干しに広げると それだけで全身が汗ばんでくる。
「果歩ちゃんにお願いしたい事があるんだけど、もう起きたかな」
母が居間に置いてあるベッドから庭の私の方を見ながら声を出した。
「おはよう。早起きだね。今日は痛いところない?」
私はつとめて笑顔で答えても、母は
「果歩ちゃんは起きたかしら。お願いしたいことがあるのよ」と言った。
「果歩ちゃんは今日はまだ来てないよ」
「じゃあ、真帆ちゃんは来ているでしょう?」
「真帆ちゃんも来てないよ」
「おかしいわね。『お母さんが家に帰ったらすぐに顔を見に来るからね』って言ったのに。いそがしいのかしら。きっとそのうち来るわよ」と続けながら、また浅い寝息を立て始めた。
余命を宣告され、食事もほとんど摂ることができなくなり、週末だけの外泊を許されている母は、長い闘病生活で家に帰れるこの時間だけを楽しみにしている。辛うじて夢と現実のはざまで生きている母は、住み慣れたこの家はいつだって心地よく、父がいて長女の私がいて、妹の果歩と真帆がいるにぎやかな自宅という時期が一番幸せで、自宅に帰ると思考がその時期へ戻ることほとんどだった。 そのことは私たち三姉妹ともに十分に知っていた。
母の寝息を確認して、私はそっと庭に出た。さっき仏壇の片隅に見つけた「ヘビ玉」を作ろうと思った。今は高校生になった私の息子たちが、幼いころ実家に来るたびにロケット花火や爆竹などと、自宅ではできないような過激な花火で一日中遊んでいたことがつい最近のような気がする。ヘビ玉はきっとその残りだろう
一センチ程度の小さな石炭みたいな黒い円柱の「ヘビ玉」はビニール袋六個入っていた。火をかざすと煙とともに黒い円柱がヘビのように長く伸びる、ただそれだけの花火だ。
私は六個ある「ヘビ玉」を積み上げた。長い長い「ヘビ」を作ろうと思った。
マッチを一本擦るとシュっと燃えて消えてしまった。二本目、三本目も同じだった。火は付き燃え上がるのだが、そのまま軸木に燃え移らない。
自分の額から滴り落ちる汗が、足元の石にシミを作った。
四本目、五本目と二本一緒に擦って、ようやく軸木も燃えたが「ヘビ玉」に近づけても反応はしない。長い年月で湿気っているのだろう。六本目からはマッチ棒を小さく薪のように積み上げて火をつけたが、薪のようには燃え上がらず、小さく燃えて消えていった。
「真帆ちゃんは来た?」
「果歩ちゃんは着いたころかしら?」
母のうつろな声が、居間から届く。
「二人とも今日は来ることはできないみたい。真帆ちゃんは友達とランチ。果歩ちゃんはご主人に遠慮しているみたいよ」
母には聞こえないように、小さな声でつぶやく。
汗が首から胸元へ吹き出すように流れ落ちる。
「尚ちゃんは、今日は遠足の日なんだよね」
「違うよ。遠足は昨日だったじゃない。楽しかったよ。今日は一日中私がずっと一緒にいるから安心して」
そう答えると、母はじっと私の目を小さな目で見て笑う。
「遠足楽しかったんだね。よかった」
あの世とこの世と、過去と現実とが入り混じった母はどんなになっても母であり、抱きしめたくなる。
「トイレに行きたいな」
母をベッドから起き上がらせて、手を引いてトイレに連れていく。腕も指も先週よりも細くなっている。
「ありがとうね」
便座に座るとほっとしたように母が言う。
「なんでもないことだよ。おかあさんちっちゃくなっちゃったし」
私はドアを閉めながら答えると、ドアの向こうから母が問いかける。
「果歩ちゃんはまだこないかな?」
「果歩ちゃんはいないよ。夕べ来たから今日は用事があるから来られないかもしれないね」
「じゃあ真帆ちゃんは来るでしょう?」
「そうだね。きっともうすぐ来るよ」
トイレで母の気が済むまで座らせながら、ドアを挟んで話をする。
「一人でベッドまで行けるから待ってなくていいよ」
「そんなこと言って、病院でも転んだでしょう。今転ぶと入院が長くなっちゃうよ」
「そりゃ大変だ」
そりゃ大変だ、そりゃ大変だ、と歌うように母が便座から動き始める。私はあわててズボンを上げて、手を引いて出て、洗面台で手を洗い、口をすすぎ、ベッドまで手を引く。
横になると痛み止めの麻薬のために目がうつろになり、深い眠りにはいる。
私はティッシュを一枚もって庭に向かった。積み上げてあるマッチ棒の下にティッシュを丸めておいて、火をつけた。
あっという間にティッシュが燃えて、マッチの軸木にも火が付き、「ヘビ玉」が反応した。
小さな塊の「ヘビ玉」からは想像もできないほどの黄土色の煙が立ち上り、黒い塊がのたうち回る蛇となった。
「果歩ちゃんは真帆ちゃんと一緒に来るのかしらね」
母の声が聞こえたような気がした。
蛇はまだ私の足元でのたうちまわっている。
(了)