W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 佳作 <ruby><rb>蟷螂</rb><rp>(</rp><rt>とうろう</rt><rp>)</rp></ruby>の夫/小口佳月
「蟷螂 の夫」小口佳月
「僕はカマキリと結婚します」
五十年も前だったら、僕のこんな報告に会社の連中は驚きのあまり卒倒するだろう。しかし生態系が著しく崩れた今の時代、上司も同僚も拍手と共に祝福してくれた。
「ご結婚おめでとうございます!」
「カマキリ女かぁ! 福井くんもいい奥さんを見つけたなぁ」
「写真見せて下さい! あ、やっぱり目は鋭いんですね。美人!」
確かに妻は美しかった。お見合いで、向かいの席に座る彩香を見たとき、その釣り目がちの漆黒の瞳に魂まで吸い込まれ、目が離せなかった。
「和真さん……私と結婚したら約束をしてほしいの」
「約束、ですか?」
人間との交配を繰り返した末の娘なのだろう、彩香はヒトとさほど変わらない外見をしていた。背も、僕より少し低いくらいで。
「こんな私でも、私の底にはカマキリの血が流れているのです……だから」
彩香は肩に垂れた黒髪をいじりながら言った。
「もし私とあなたの間に子どもができたら、私はあなたを食べてもいいでしょうか?」
「え……」
心臓が氷のように固まった。冷たい鼓動と共に手の平にひんやりと汗をかく。
「カマキリは今までそうやって子孫を残してきました。交配したオスを食べて体力をつけて子どもを生みました。もし、この条件が飲めないようでしたら、その……」
ハッとし、僕は姿勢を正した。
「カマキリという生き物のこと、僕はよく存じております。僕でよかったらどうぞ食べて下さい。いくらでも」
彩香は安心したように、初めて僕に笑いかけてくれた。
この美しい女性を手に入れたい。手に入れたいけど、食べられるのは嫌だ――しかし、僕には考えがあった。
彩香との間に子どもを作らない。徹底した避妊をすること。そうすれば僕は一生彩香と一緒にいられるだろう。
そして僕らは結婚した。ウェディングドレスを纏った彩香の、爪が尖った薬指にそっと結婚指輪をはめる。ベール越しに彼女が僕に微笑むたび、僕の胸は甘く震えた。彼女を幸せにしよう――想いを込めて誓いのキスをした。
結婚してひと月が経った頃、彩香は妊娠した。
「どうして……」という言葉を、僕は呑み込んだ。どんな方法でも百パーセントの避妊はないと、僕は学校で教わったはずだ。自分の浅はかさが腹立だしかった。
「嬉しいわ。このお腹の中に私と和真さんの子どもが百匹以上いるだなんて」
「そんなにいるんだ……」
妊娠して間もないのに、彩香の腹は臨月のように重たそうだ。
「すぐに生まれるわ。カマキリの妊娠期間は十日から二週間なの」
ソファの隣に座る僕の手に、彩香は手を重ねた。きゅっと、握られた。彩香の尖った爪が手に食い込む。
「痛っ……」
僕は彩香を見た。彼女は微笑んでいる。漆黒の瞳が闇のようだった。闇……きっと奈落の底ってこんな感じなんだろうな。僕は思った。暗くて、自分の姿すら見えない。次第に溶けていって、同化して、自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。完全なる、黒い世界……。
我に返り、僕は身重の彩香を突き飛ばして家から飛び出した。
「どうして! 約束したじゃない!」
彩香に噛まれ、首から溢れる血を手で押さえながら僕は走り続けた。
「子どもたちはどうするのよ!」
彩香の泣き叫ぶ声が聞こえる。
「私がなにをしたって言うの?」
今日のことを会社の連中に言ったら、みんな眉をひそめるだろう。「無責任な奴め」と、陰口を叩かれるにちがいない。
五十年前だったらわからない。けれど生態系が著しく崩れた今の世の中で、僕の味方をする者は誰もいない。
(了)
五十年も前だったら、僕のこんな報告に会社の連中は驚きのあまり卒倒するだろう。しかし生態系が著しく崩れた今の時代、上司も同僚も拍手と共に祝福してくれた。
「ご結婚おめでとうございます!」
「カマキリ女かぁ! 福井くんもいい奥さんを見つけたなぁ」
「写真見せて下さい! あ、やっぱり目は鋭いんですね。美人!」
確かに妻は美しかった。お見合いで、向かいの席に座る彩香を見たとき、その釣り目がちの漆黒の瞳に魂まで吸い込まれ、目が離せなかった。
「和真さん……私と結婚したら約束をしてほしいの」
「約束、ですか?」
人間との交配を繰り返した末の娘なのだろう、彩香はヒトとさほど変わらない外見をしていた。背も、僕より少し低いくらいで。
「こんな私でも、私の底にはカマキリの血が流れているのです……だから」
彩香は肩に垂れた黒髪をいじりながら言った。
「もし私とあなたの間に子どもができたら、私はあなたを食べてもいいでしょうか?」
「え……」
心臓が氷のように固まった。冷たい鼓動と共に手の平にひんやりと汗をかく。
「カマキリは今までそうやって子孫を残してきました。交配したオスを食べて体力をつけて子どもを生みました。もし、この条件が飲めないようでしたら、その……」
ハッとし、僕は姿勢を正した。
「カマキリという生き物のこと、僕はよく存じております。僕でよかったらどうぞ食べて下さい。いくらでも」
彩香は安心したように、初めて僕に笑いかけてくれた。
この美しい女性を手に入れたい。手に入れたいけど、食べられるのは嫌だ――しかし、僕には考えがあった。
彩香との間に子どもを作らない。徹底した避妊をすること。そうすれば僕は一生彩香と一緒にいられるだろう。
そして僕らは結婚した。ウェディングドレスを纏った彩香の、爪が尖った薬指にそっと結婚指輪をはめる。ベール越しに彼女が僕に微笑むたび、僕の胸は甘く震えた。彼女を幸せにしよう――想いを込めて誓いのキスをした。
結婚してひと月が経った頃、彩香は妊娠した。
「どうして……」という言葉を、僕は呑み込んだ。どんな方法でも百パーセントの避妊はないと、僕は学校で教わったはずだ。自分の浅はかさが腹立だしかった。
「嬉しいわ。このお腹の中に私と和真さんの子どもが百匹以上いるだなんて」
「そんなにいるんだ……」
妊娠して間もないのに、彩香の腹は臨月のように重たそうだ。
「すぐに生まれるわ。カマキリの妊娠期間は十日から二週間なの」
ソファの隣に座る僕の手に、彩香は手を重ねた。きゅっと、握られた。彩香の尖った爪が手に食い込む。
「痛っ……」
僕は彩香を見た。彼女は微笑んでいる。漆黒の瞳が闇のようだった。闇……きっと奈落の底ってこんな感じなんだろうな。僕は思った。暗くて、自分の姿すら見えない。次第に溶けていって、同化して、自分が生きているのか死んでいるのかすらわからない。完全なる、黒い世界……。
我に返り、僕は身重の彩香を突き飛ばして家から飛び出した。
「どうして! 約束したじゃない!」
彩香に噛まれ、首から溢れる血を手で押さえながら僕は走り続けた。
「子どもたちはどうするのよ!」
彩香の泣き叫ぶ声が聞こえる。
「私がなにをしたって言うの?」
今日のことを会社の連中に言ったら、みんな眉をひそめるだろう。「無責任な奴め」と、陰口を叩かれるにちがいない。
五十年前だったらわからない。けれど生態系が著しく崩れた今の世の中で、僕の味方をする者は誰もいない。
(了)