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W選考委員版「小説でもどうぞ」第3回 最優秀賞 化粧した嘘/阿岐有任

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
「化粧した嘘」阿岐有任
 約束とは、化粧を施した嘘だ。
 口約束という語を考えてみるといい。それはあやふやで、あてにならなくて、往々にして破られるものだという感覚が付きまとう。その不信感は口頭であることに由来するようにも思えるが、実のところそうではない。だって、書面ならそれはもう約束とは言わない。それは契約であり誓約であり念書であり覚書きであって、書面にしてまで約定したものをまだ約束と呼ぶ人間を、少なくとも私は知らない。
『せっかくのゴールデンウィークなのにどこにも連れてってやれなくてごめんな、律子。夏休みには旅行しような、約束だ』
 休日でも誕生日でもクリスマスでも正月でも、旅行でもプレゼントでもお年玉でも、同じことだった。
『悪かった、今度こそ酒はやめる、約束する』
 酒が煙草でも競馬でも同じだった。
 しまいには、これだ。
『律子。お父さんとお母さんは離婚するけど、お父さんとはいつでも会えるから。お父さんがお父さんであることは変わらないんだからな。今後の生活も学費も心配しなくていい。ちゃんとするよ、時々は会いに来る。約束だ』
 両親はきっと、結婚式で永遠の愛を約束したのだろう。
 行きたかった私立の中高一貫校は受験料さえ厳しくて諦めざるを得なかったし、高校と大学の学費は奨学金とバイト代で払った。いつでも会える約束から現実で父に再会するまでには、実に十年近く経っていた。それも私が就職して三ヶ月ほど経った頃、とっくに成人して養育費を払う必要もなく、かえって自分で稼ぎ始めたタイミングだった。
『少し都合してくれんか。必ず返す、約束するから』
 するから、なんだと言うのだろう?
 ほんの少しの金を数回だけ握らせた。そして父の、頸椎けいついヘルニアだか何だかで回らない首が寝違え程度にましになり、懐を探れば脂肪以外の中身があった千載一遇の機に、さんざん小金で断りにくくした小さな頼み事を繰り出した。
『お父さん、友達に会ってくれない? 保険会社に就職した子なんだけど、ノルマきついって困ってて。話聞くだけでいいからさ』
 菜摘は、大学で講義がいくつか被っていた同級生で、顔を合わせる機会が多かったので挨拶と世間話くらいはしたが、遊びに行く約束すらしたこともない間柄だった。その程度の関係で卒業から半年も経ってから営業電話を掛けてくるのだから、なりふり構っていられない業界なのだということはわかった。相手する気もなかったが、『知ってる? 生命保険金って、相続財産じゃないんだよ』というセールストークを聞いてふと思いついた。
『菜摘、条件があるの。リビングニーズ特約を絶対に付けないで。約束してくれるなら、お父さん紹介してあげる』
『──受取人は……離婚されて、律子以外のお子さんはいなかったんだよね』
 流石に菜摘はプロで一瞬で全部を悟ったが、それ以上は何も言わなかった。家族関係を心配されるほどの友情はない。だから正直、うまくいけば儲けもの程度にしか期待していなかったが、彼女は約束を守ったので、それは契約に名を変えた。
 自堕落な生活がそのまま見た目に出ている金に困った高齢の男は、営業だろうと若い女に愛想よくされたら舞い上がるとわかっていた。菜摘にとっては楽な仕事だったろう。保険料の支払いは当然滞りがちだったが、菜摘が可愛らしく督促電話を入れれば父は借金してでも払った。どうしても無理なときは私が出した。あとで十分お釣りが来る。
 そのうち父は入院した。頚椎ヘルニアは死ぬような病気ではないが、首と頭以外にも悪いところは山のようにあった。高齢と酒と煙草と運動不足を考えると、それは約束された未来を通り越して予定調和だった。
かんばしくありませんね。この病気は患者さんご自身の節制が大事なのですが、お父様は治療に身が入らなくて。このままでは……」
 恐縮する素振りをしてから、病室に向かう。
「お父さん、またリハビリさぼったって? 薬も飲んでないでしょ」
「だってさあ、つまんなくて地獄だよここは」
 そう不貞腐ふてくされる姿は醜悪そのものだ。負の遺産しか残らないだろうから、いずれのときには相続放棄しよう。それでも相続財産に入らないものは貰える。菜摘は本当にいいことを教えてくれた。
 カーテンの向こうに聞こえないように声をひそめ、バッグからそっとカップ酒を出す。
「内緒よ、ほら。これ飲んだら、ちゃんと先生の言うこと聞いて、リハビリして薬飲んで、早く良くなって。約束よ?」
「律子! お前は本当に良い娘だよ。ああ、約束だ」
 早く死ね。
(了)