第14回「小説でもどうぞ」佳作 過去に捕まらないように/小口佳月
第14回結果発表
課 題
忘却
※応募数217編
「過去に捕まらないように」小口佳月
或る日、夫が記憶喪失になった。頭に包帯を巻いて病室のベッドに腰掛けている夫は、私の姿を認めると気まずそうにうつむいた。
「徹さん、気分はどうですか。着替えを持ってきましたよ」
夫は私が差し出した紙袋を恭しく受け取った。
「いつもありがとうございます……なのに」
夫は私から視線を逸らしたまま言った。
「あなたのことを思い出せなくてごめんなさい……」
「無理に思い出す必要はありません。お医者様も言っていたでしょう。そのくらいひどい事故だったんだから」
夜、バイクを運転していた夫はトラックにはねられた。バイクから投げ出され、縁石に頭を強打し、ヘルメットは粉々に砕けた。奇跡的に外傷はほとんどなく、ただ自分に関する三十五年間の記憶をするりと失った。
「えっと……冬子さん」
「はい」
夫に「さん」付けで呼ばれる日が来るなんて。夫も現状に戸惑っているが、私も以前と違う夫の前だと緊張する。
「僕は一体どんな人間だったのかな。どんな仕事をしていたのでしょうか。親はいるのでしょうか。あなたにとっていい夫だったのでしょうか。何もわからなくて怖いです……これは普通の感情でしょうか」
「普通の感情です」と私は言った。
「それに、過去に戻れないのは私もあなたも同じ。後ろ向きに歩くのは苦しいので前だけ見て歩きましょう。忘れてしまったことはきっと、覚えていても仕方のないことだったのです」
夫は私の目を真っ直ぐに見た。そして、親に褒められた子どものように笑った。こんな夫の笑顔、事故以来初めて見た。いや、事故以前にも見たことがなかったかも知れない。
夫が退院し、私たちは一緒に住んでいたアパートに帰った。記憶を失い、初めて来た自分の家に、夫は落ち着かない様子だった。
「僕はこの家で何をすればいいでしょうか」
「別に何も。家事も仕事も全部私がやってきたので」
「そんな。僕にも何かやらせて下さい!」
「とりあえず休んでいて下さい」
うつむき、夫は鼻を啜った。目をこするたび、畳の上に雫が落ちる。
「どうして、泣いているの?」
「……記憶を失う前の僕は、あまり良くない人間だったようだ」
そんなことない、という言葉を、私は呑み込んだ。以前夫に殴られ烙印のように焼き付いた痣がうずき、私に嘘を吐かせなかった。
「僕、これから変わります。前だけを見て歩きます。あなたを、幸せにします」
その日から夫は家事をするようになった。たどたどしく掃除機をかけた。スポンジに泡をつけ、時間をかけて風呂場を洗った。それ以外の時間は本を読んで過ごしていた。
「この本棚にある本、全部冬子さんの?」
「そうよ」
「本、たくさん読むんだね。僕、高村光太郎の『智恵子抄』を読んだよ。奥さんが病気になって変わってしまう話。悲しかった」
たくあんに伸ばした箸を止め、夫は唇を動かした。
「冬子さんも僕が変わってしまって悲しい?」
私は首を横に振った。
「人は変わるものよ。悲しくなんかない」
「そっか……」
夫は以前と違って色々なことをしてくれる。なのに、台所にだけは近付かなかった。
「ごはん、いつも作ることができなくてごめんなさい」
「謝ることはないわ」
「本当は作りたいんです。なのに台所に行くと足がすくんで……なんだかあそこが怖いんだ」
その夜、寝ていた夫は悲鳴を上げて飛び起きた。
「どうしたの!?」
「冬子さんが、冬子さんが!」
「私が?」
「僕に向かって包丁を……」
夫はいま見た夢の内容を話し始めた。
「僕はひどい夫だったから冬子さんが怒ったんだ! 僕は怖くてバイクで逃げて、それで」
すべてを思い出してしまう前に、私は夫の口を自分の口で塞いだ。唇を離すと、夫は赤子のような潤んだ目できょとんと私を見た。
「怖い夢をみたのね。私もたまに見るわ」
「……夢?」
「ねぇ徹さん、あなたはいま幸せ?」
夫は微笑み、うなずいた。
「冬子さんがいるから幸せだ」
「私もよ」
私たちは後ろ向きには歩かない。私たち夫婦は、これからだ。
(了)
「徹さん、気分はどうですか。着替えを持ってきましたよ」
夫は私が差し出した紙袋を恭しく受け取った。
「いつもありがとうございます……なのに」
夫は私から視線を逸らしたまま言った。
「あなたのことを思い出せなくてごめんなさい……」
「無理に思い出す必要はありません。お医者様も言っていたでしょう。そのくらいひどい事故だったんだから」
夜、バイクを運転していた夫はトラックにはねられた。バイクから投げ出され、縁石に頭を強打し、ヘルメットは粉々に砕けた。奇跡的に外傷はほとんどなく、ただ自分に関する三十五年間の記憶をするりと失った。
「えっと……冬子さん」
「はい」
夫に「さん」付けで呼ばれる日が来るなんて。夫も現状に戸惑っているが、私も以前と違う夫の前だと緊張する。
「僕は一体どんな人間だったのかな。どんな仕事をしていたのでしょうか。親はいるのでしょうか。あなたにとっていい夫だったのでしょうか。何もわからなくて怖いです……これは普通の感情でしょうか」
「普通の感情です」と私は言った。
「それに、過去に戻れないのは私もあなたも同じ。後ろ向きに歩くのは苦しいので前だけ見て歩きましょう。忘れてしまったことはきっと、覚えていても仕方のないことだったのです」
夫は私の目を真っ直ぐに見た。そして、親に褒められた子どものように笑った。こんな夫の笑顔、事故以来初めて見た。いや、事故以前にも見たことがなかったかも知れない。
夫が退院し、私たちは一緒に住んでいたアパートに帰った。記憶を失い、初めて来た自分の家に、夫は落ち着かない様子だった。
「僕はこの家で何をすればいいでしょうか」
「別に何も。家事も仕事も全部私がやってきたので」
「そんな。僕にも何かやらせて下さい!」
「とりあえず休んでいて下さい」
うつむき、夫は鼻を啜った。目をこするたび、畳の上に雫が落ちる。
「どうして、泣いているの?」
「……記憶を失う前の僕は、あまり良くない人間だったようだ」
そんなことない、という言葉を、私は呑み込んだ。以前夫に殴られ烙印のように焼き付いた痣がうずき、私に嘘を吐かせなかった。
「僕、これから変わります。前だけを見て歩きます。あなたを、幸せにします」
その日から夫は家事をするようになった。たどたどしく掃除機をかけた。スポンジに泡をつけ、時間をかけて風呂場を洗った。それ以外の時間は本を読んで過ごしていた。
「この本棚にある本、全部冬子さんの?」
「そうよ」
「本、たくさん読むんだね。僕、高村光太郎の『智恵子抄』を読んだよ。奥さんが病気になって変わってしまう話。悲しかった」
たくあんに伸ばした箸を止め、夫は唇を動かした。
「冬子さんも僕が変わってしまって悲しい?」
私は首を横に振った。
「人は変わるものよ。悲しくなんかない」
「そっか……」
夫は以前と違って色々なことをしてくれる。なのに、台所にだけは近付かなかった。
「ごはん、いつも作ることができなくてごめんなさい」
「謝ることはないわ」
「本当は作りたいんです。なのに台所に行くと足がすくんで……なんだかあそこが怖いんだ」
その夜、寝ていた夫は悲鳴を上げて飛び起きた。
「どうしたの!?」
「冬子さんが、冬子さんが!」
「私が?」
「僕に向かって包丁を……」
夫はいま見た夢の内容を話し始めた。
「僕はひどい夫だったから冬子さんが怒ったんだ! 僕は怖くてバイクで逃げて、それで」
すべてを思い出してしまう前に、私は夫の口を自分の口で塞いだ。唇を離すと、夫は赤子のような潤んだ目できょとんと私を見た。
「怖い夢をみたのね。私もたまに見るわ」
「……夢?」
「ねぇ徹さん、あなたはいま幸せ?」
夫は微笑み、うなずいた。
「冬子さんがいるから幸せだ」
「私もよ」
私たちは後ろ向きには歩かない。私たち夫婦は、これからだ。
(了)