第57回「小説でもどうぞ」佳作 う 海老原葉冷


第57回結果発表
課 題
裏切り
※応募数434編
海老原葉冷
深夜、老舗うなぎ割烹『うな兆』の厨房に侵入した何者かは明かりもつけず、壁一面に並ぶ業務用冷蔵庫の方へと忍び足で近づいていった。左端下段の扉をゆっくりと開き、創業以来継ぎ足しで使い続けているタレの
全従業員に緊急連絡が行き渡った。臨時休業が決まり、予約客には大女将みずから朝一番で謝罪の電話を入れた。さいわい予約の殆どが常連だったこともあり、どうにか難を免れた。電話を終えた大女将は着物をたすき掛けにして、宮太鼓の支度に取り掛かった。うな兆では重大会議や祝賀などの際、太鼓を叩くのが習わしとなっている。
拘束されていた圭介は数時間後、警備員に連れられて店の大座敷までやってきた。憔悴しきった顔をあげると、親方をはじめとした全員がそこには控えていた。
どおおおん。大女将が太鼓をひとつ打ち鳴らす。音の残響が完全に消え去るのを待って、親方が口を開いた。
「圭介よ、まあ座れや」
思いがけない優しい声に、圭介は弾かれたように土下座して、声のかぎりに叫んだ。
「申し訳ございませんでしたっ!」
「とりあえず、洗いざらい話してもらおう」
「はい……」
圭介が打ち明けた内容は概ね親方の予期した通りだった。閉店後、仕事を終えて勝手口から出てきた圭介に見知らぬ男が声をかけてきたという。差し出された名刺には、近頃すさまじい勢いで店舗を増やしている創作居酒屋のロゴが印字されていた。
「タレをコップ一杯でも譲ってくれれば、報酬を払うと持ちかけられました。冗談じゃないと追い返そうとしたんです。ですが、男が提示してきた金額がその、とんでもない額で、それで……」
「金に目が眩んだか」
「子供も生まれたばかりで……ううっ」
圭介の涙が、張り替えたばかりの青畳にいくつもの染みをつくった。
「若い連中は知らんだろうが、昔はこの業界じゃこういう問題が頻発していた。裏切りならぬ『うなぎり』ってやつだ。タレや技法を盗んだり、競合店と結託して世話になった親方をぶっ殺したり、そんな話はザラだった。うなぎにはそれだけ人を惑わす魔力があるってこった。管理組合や防犯装置ができたおかげで今じゃ平和になったが、お前らも今回のことは他人事と思わず、気を引き締めなきゃならねえぞ」
「へいっ」全員が声を揃えた。
「さて圭介よ。未遂に終わったとはいえ、お前のしでかしたことは紛れもないうなぎり行為だ」
「はい……」
「十代の頃からうちに尽くしてくれた功労に免じて選ばせてやる。今日で店を去るか、うなぎり者の罰を受け入れてここで一から出直すかだ。言っておくが、罰ってのは生半可なもんじゃねえぞ。江戸より伝わる苛酷な制裁だ。覚悟して決めな」
「私には、この店しかありません。置いてもらえるならどんな罰でも受け入れます。お願いします!」
「……二言はねえな」
「はい」
「歯ぁ食いしばれ!」
懐からうなぎ裂きを取り出した親方が圭介におどりかかる。大女将は髪を振り乱し太鼓を打ち鳴らす。鬼気迫るそのバチ捌きは、制裁が終えられるまで止まることはなかった。
どんどこどんどこどこどこどこどこ……。
一年が経った。閉店後の厨房でひとり居残ってシンクを磨いている圭介の元に、親方がやってきた。
「圭介、それが終わったら事務所に来い」
「へいっ」
あの日、親方の見事な包丁さばきで髪を眉毛ごと剃り落とされた圭介は、そのまま額に「う」の字の入墨を彫られた。塗料には紀州備長炭が用いられた。
『うなぎり者はうなぎ屋の穢れだ。一年間、一切の食材に触れることを禁ずる。客に姿を見せることも許さん』親方は告げた。
洗い物や掃除などの雑用のみを繰り返す日々。圭介は誰よりも早く出勤し誰よりも遅く退勤することを徹底し、信頼を取り戻すために全身全霊で働いた。
「失礼します」
「おう、座れ」事務所のソファでふたりは向かい合った。
「一年間ご苦労だったな。明日から調理に戻れ。剃髪もやめて、入れ墨も消してこい。費用は出してやるから」
「ありがとうございます。ですが親方、この『う』の字を消すのはもう少し精進してからにします。自分への戒めを解くには、時期尚早な気がするのです」
「ふむ……」
「お願いします」
「いいだろう。だがな、お前を待ち兼ねているお得意さんだっているんだぜ。俺の鉢巻きをくれてやるから、客前に出るときはそれをつけやがれ」
「親方……。ほんとうに、何から何まで」
「湿っぽいのはなしだ。さ、今日は帰ってゆっくり寝ろ。明日から忙しい。腕が鈍ってたら承知しねえぞっ」
「はいっ。お疲れ様でした」
鼻を啜って部屋を出てゆく圭介の背中に、親方が声をかけた。
「お前をそそのかした男のキモを漬け込んでるから、一年前よりタレの味が深いぞ。味見しとけ」
「……かしこまりました」
「冗談だ。ははは」
「ははっ。失礼します」圭介は扉を閉めた。
親方が冗談を言うのなんて初めてだ。……いや、まさかな。そんなはず……。
考えれば考えるほど、額の「う」の字がぐんにゃりと歪んでゆく。
(了)