第57回「小説でもどうぞ」佳作 裏切りの味 吉井寛光


第57回結果発表
課 題
裏切り
※応募数434編
吉井寛光
その日、わたしは二個のスパムおにぎりにむしゃぶりついていた。これは妻に対する裏切りを意味している。
わたしと妻は社会人を始めて十年、お互い三十五歳である。二人ともそれなりに恋愛を経験していたが、どうしてもうまくいかなかった。それは料理に対するこだわりであった。素材の旨味を最大限に発揮できるのは最小限の味付けであり、過剰な砂糖、過剰な香辛料、いくつもの出汁を混ぜた料理は許せない。ただただシンプルが一番。ファストフードやコンビニ飯、レトルト、カップ麺などは論外。それが二人の共通点だった。
それまでお互いにこだわりが合う人なんかいないだろうと半ば結婚を諦めていたが、取引先との食事会で同席したときに二人は出会った。ビュッフェ形式の食事会であり、自由に食べるものを選べる。すると選ぶ料理、選ぶ料理どれもが同じ、味つけも同じ、飲み物さえ同じだった。自然と話す機会が増え、お互いの趣味や生活、そして味のこだわりについての話になり、こんなに似ている人なんていない、これは運命だろうと意気投合。二人は必然的に恋人となり、すぐに結婚した。家事は分担して料理は交互に担当、絶対に手作りだ。
それでもお互い社会人であり、取引先、上司、同僚などとの付き合いがある。そのときは仕方なくその場に合わせるしかない。そういった特別な場合を除き、食べるものは二人のお手製だった。
一週間前だろうか。仕事の残業中、お腹を空かした後輩がコンビニでおにぎりを多めに買ってきてくれた。わざわざ先輩の分もだ。いつもなら丁寧に断っていただろうが、後輩の優しさを無碍にできないと感じておにぎりを選ぶ。選ぶのに遅れたせいでビニール袋の中におにぎりは一つしかなかった。スパムおにぎりだった。おにぎりというよりはスパムそのものの見た目にご飯と間にマヨネーズ。脂ぎった見た目に思わず顔をしかめてしまった。もはやおにぎりと言ってしまっていいのだろうか。我慢して口に入れる。するとどうだろう。一瞬にして恋に落ちてしまった。
それから妻にバレないようにお昼は毎日のようにスパムおにぎりを食べていた。まるで飽きることがない。背徳の味だ。家で料理を食べている時、お風呂上がりに水を飲む時、テレビを見ている時、あらゆる時に口寂しさからスパムおにぎりを思い浮かべてしまう。お昼ご飯の時の口に入れる瞬間、あの快感のために生きているような気もしてきた。
しかし夢のような日々は長くは続かなかった。毎日お弁当とスパムおにぎりを食べていたせいで、体重は確実に増加していった。妻にそのことを指摘されたときは年齢のせいだよと言い訳をすることができたが、日によってはお弁当を残すことがあり、物言わぬ不信が少しずつ積もっていった。あまり妻を怪しませることは良くない。健康のためと称してマラソンを始め、会社から帰宅する途中に口臭を消すためにミントのガムを噛むようになっていた。しかし、それが逆に妻の疑いを決定づける原因となってしまうこととなる。
その日は上司に連れられ飲み会に参加していた。妻にそのことを知らせてはいたが、その場の勢いでいつもより多くビールを飲んでしまっていた。ふらつきながら帰宅し、スーツを脱いで妻に預ける。妻がそのままジャケットを吊るす際にポケットに入れてあるガムを発見したのだった。これ何、そう聞かれてぽあぽあとしていた頭が少しずつ覚めていく。脂っこい食物を食べたときの口直しだよ、ありきたりな言い訳だが、あまり不自然ではないだろう、この場合。そう思考を働かせていった。すると顔を強張らせて妻が尋ねる。
「でも、帰ってきてお茶飲めばいいでしょ。わざわざ買うなんて」
「気持ち悪くてさ。思わずね」
納得のいかない妻は顔を赤くして迫る。
「じゃあ、なんで何枚も減っているの。今日買ったなら一枚だけ減っているでしょう」
言葉が出てこない。この沈黙が疑いに拍車をかけていく。
「正直に言ってよ。なんで」
「ごめん。最近ガムを噛むようになったんだよ。口寂しさというか」
ガムを買ったことを認めてスパムおにぎりのことは黙っていた。
「本当にそれだけ? じゃあなんで最近お弁当残しているの? 知ってるんだよ。マラソン始めたのに、どんどん太っていくし」
酔いは完全に覚めてしまっていた。食の裏切り、それは二人の絆の裏切りに等しい。これ以上のごまかしはできない。わたしはスパムおにぎりのことを妻に切り出したのだった。
その週末。妻は友だちと一緒にカフェで相談していた。ことのてん末を話すと友だちも同情してくれた。
「一緒になった理由だもんね。食の違いとはいえ大事だし。浮気されたに等しいじゃん」
そこで友だちは悪いことを思いついたように口の端を歪めて笑う。
「じゃあさあ……」
あの日から妻はご飯を作ってくれなくなった。お互い自分の分を作るだけ。自業自得だから何も言えない。ただただ申し訳ない。妻が帰ってくる。するとスッキリした顔でこちらを見る。
「ごめんね。こっちも強く怒り過ぎたのかも」
そう言うと台所に立つ。思ってもいない一言に涙がこぼれそうになる。こちらこそごめん、そうつぶやく。いいの。妻もそうつぶやく。今日は何が食べたい、と尋ねる笑顔がまぶしく光った。そう、そのときは知らなかった。妻がケーキビュッフェでしこたま食べまくり、濃いコーヒーをグビグビと飲んだことなど。
(了)