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第57回「小説でもどうぞ」佳作 嘘ではない 猪本杜奈

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小説
小説でもどうぞ
第57回結果発表
課 題

裏切り

※応募数434編
嘘ではない 
猪本杜奈

 人の話は、残しておいた方がいい。忘れると、なかったことになるからだ。
 そう思うようになってから、一ノ瀬康平は会話を記録するようになった。
 誰かが「言っていない」と言い出したときのために。
 あるいは、本当に言っていなかったことにするために。
 その日も、早川祐介の声を、ポケットの中で拾っていた。

 店内は騒がしく、隣の席の笑い声がやけに近い。ジョッキの水滴がテーブルに輪を作っている。祐介はそれを指でなぞりながら、さっきと同じ話を少しだけ違う言葉で繰り返していた。
 三回目だと気づいたときには、もう録音は始まっていた。
 それに気がつくと、隣の席の笑い声がやけに同じ調子で繰り返されている気がしてたまらない。
 誰かが同じ話をしているのか、それとも――
 この店自体が、どこかで同じ夜を繰り返しているのか。
「でさ、あいつがさ」
 話の途中で、不意に言葉が途切れる。祐介はグラスを持ち上げ、残っていた酒を一気に飲み干した。
「なあ、一ノ瀬」
 呼ばれて、顔を上げる。祐介は側面に残っている泡をじっと見つめていた。
「俺さ」
 少しだけ声の調子が変わる。
「昔、人を轢いたことあるんだよ」
 冗談にしては間が悪い。笑うべきか迷って、康平は結局何も言えなかった。
「……そのまま、逃げた」
 祐介は笑っていた。けれど目は笑っていない。グラスを置く手が、わずかに揺れている。
 店のざわめきが、急に遠くなった気がした。
「酔ってるだけだろ」
 そう言うと、祐介は首を振る。
「すっげえ音と衝撃がして」
 そこで一度、祐介は笑った。
 思い出しているというより、確かめているような笑い方だった。
「夜だったし、見えなかったんだよ。俺、それでやべえって思って……でも、降りなかった」
 言葉は途切れ途切れで、それでも妙に具体的だった。
 康平は何も言わずに聞いていた。ポケットの中で、スマホがわずかに熱を持っている。
「誰にも言うなよ」
 祐介は笑ってそう言った。軽い調子だったが、目だけが射抜くようにこちらを見ていた。
「言わねえよ」
 考えるより先に答えていた。
 その言葉が、何を指しているのかも曖昧なまま。

 店を出ると、夜風が少し冷たい。酔いは思ったよりも浅かった。角を曲がった先に、白い菊が置かれている場所がある。簡単な柵の内側に、花束がいくつか並んでいた。祐介は一瞬だけそちらを見て、すぐに目を逸らした。
 帰り道、ポケットからスマホを取り出す。録音はまだ続いていた。停止して、再生する。
 ざわめきの奥に、祐介の声がある。
「昔、人を轢いたことあるんだよ」
 画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
 止める理由も、消す理由も思いつかなかった。
 これは、残しておくべきだと思った。
 帰宅して、机に向かう。音声を読み込ませると、祐介の言葉が文字に変わっていく。少しだけ整えて、余計な言い淀みを消す。意味は変えずに、そのまま残す。
 そして、出来上がったものを保存する。消す理由はなかった。
 三日後、祐介に呼び出された。
 人気のない路地で、いきなり胸ぐらを掴まれる。
「お前、言っただろ」
 息が酒臭い。目はあのときと同じで、笑っていなかった。
「何のことだよ」
「とぼけんなよ。あの記事、見たか?」
 祐介は声を落とす。
「遺族が動いたって……あれ、タイミングおかしいだろ」
 手に力がこもる。けれど、振り払うほどでもなかった。
 少し考えてから、康平は言った。
「言ってないよ」
 祐介の手が緩み、ぱたりと落ちた。別の手で、忙しなく爪を噛んでいる。
「……じゃあ、なんで」
 その続きを待たずに、俺は視線を外した。角の先、白い花が置かれている場所を思い出す。
「置いただけだ」
「は?」
 康平はほんの少しだけ考える。言い方はいくつもあった。もっと角の立たない言い方はいくらでも。
「菊の隣に」
 祐介はしばらく何も言わなかった。ただ、康平の顔を見ている。
 小さな紙切れのことを思い出す。
 印刷された文字は、短いURLだけだった。
「言ってない」
 それだけは、嘘じゃなかった。
(了)