第57回「小説でもどうぞ」選外佳作 悔恨 日條佐半次


第57回結果発表
課 題
裏切り
※応募数434編
選外佳作
悔恨 日條佐半次
悔恨 日條佐半次
六十二歳で定年退職した私の少ない趣味のひとつに山登りがある。登山のように登頂にはこだわらず、山の中を歩くことを目的としている。私の住んでいる戸建ての団地に、〇〇歩こう会という有志で作った同好会があり、ウオーキングを中心に活動していたがそれでは物足りず、その中の何名かで登山部を作った。妻にそのことを言うと、富士山の御来光のニュースを見たことがあるらしく、
「私の代わりに富士山の御来光を撮ってきてよ」
と言ったが、私はそんな高い山に興味はないので、「ああ、気がむいたらな」とお茶を濁した。
S子さんが歩こう会に入会してきたのは、私が役員(幹事)をしている時だった。S子さんは五十五歳と自己紹介したが、作りは若く美人でスタイルも良く、四十歳代と言っても通るような人だった。当然、男どもは色めきだった。普通こういう女性が入ってくれば、女性陣の胸中もそれぞれだろうが、S子さんは誰にでも気さくに話しかけ、人が面倒くさがる仕事でも進んでしてくれるので女性陣の受けもよかった。
私が企画した日帰りコースで、比較的低い山を歩く登山の参加募集をしたところ、多くの女性が参加してきた。もちろんS子さんもその中にいた。
決行当日は天候も良く、我々二十名ほどのグループは、会長を先頭にして私が最後尾を受け持って出発した。S子さんは私の少し前を歩いていたが、景色に見とれていたらしく、突然、石につまずいて足首を捻挫してしまった。もう歩くのは無理なため、企画者である私が自宅まで送ることになった。
帰りの電車の中で私は世間話として、娘が二人いて孫が五人いることを言うと、最初のうちは笑っていたS子さんだったが、その内に段々と顔に陰りが見え初め、うつむき加減になって「何か羨ましいです」と言った。その訳をたずねると、S子さんご夫婦に子供は無く、御主人は会社を経営をしていると言った。経済的には何の問題もないが、強い男特有の女性問題が過去に何度かあり、裏切り続けられていると悲しい顔をした。別れ際に
「また会って私の愚痴を聞いてくださいますか?」
と言われ、
「私で良ければいいですよ」
と返事をした。
これは浮気ではない。S子さんにしても、ただ愚痴を聞いてほしいだけで、こんなくたびれた男を相手にするわけがない。私は妻を裏切ったことがないし、今もつくしてくれている妻を裏切れるわけがない。私の意志は鋼鉄のように固いとその時は思った。
何度目かに会った時S子さんが、思いがけないことを言った。
「主人の悪い癖がまた始まりました……私さびしいんです」
この一言で、私が妻に持っていた鋼鉄の意志は綿菓子と化し、邪な炎で焼かれた瞬間に消えた。その日、私たちは男と女の関係になった。我を見失った私は、逢うたびにS子さんの体を求めるようになっていた。そんな関係が半年も続いただろうか。あの日もS子さんに逢うために着替えていると妻が、
「体がだるくて熱があるみたい。心配だから今日は休めない?」
私は妻に憎悪を感じたが、S子さんに逢いたい一心で適当なことを言った。
「軽い風邪だろう。薬を飲んで寝ていればじきによくなるさ。心配性だなあ」
と言い、出て行く時に私は、体調の悪い妻にひどいことを言った。
「晩飯は簡単なものでいいぞ」
この言葉を妻はどんな気持ちで聞いていたのだろう?
私は家を出るとすぐに、妻のことは頭と心から消えていた。S子さんとはいつものように楽しい話をして逢瀬を重ね、何食わぬ顔で家に帰ると、妻は床に倒れていて、冷たくなっていた。
急性心不全と医者から言われたその瞬間、身の毛がよだつ罪悪感に襲われた。俺がもし今日家に居れば、発見が早ければ、すぐに救急車を呼べば、妻は助かったのではないか。浮気相手に会いたいばっかりに妻を見殺しにした。見殺しにした。見殺しに……。
「そうだっ、俺が妻を殺したんだっ」
そう思うと他のことは考えられず、ただ情けなくて自分を責める日々だけが過ぎていく。何もする気がおこらず、引きこもりのようになった。心配した娘たちが来てはくれるが、ある日その娘からとどめを刺された。
「お父さんをこんなにまで悲しませて、お母さんはきっと幸せだったんだね」
私は死を決意した。
翌朝、妻の遺影に「これからお前の……」と言ったその時、日が差し、部屋が急に明るくなったと思ったら声が聞こえた。
「私の代わりに富士山の御来光を撮ってきてよ」
間違いなく妻の声だった。死ぬのはそれからでも遅くはない。私は妻の声に押されて、登山の準備を始めた。落ちた筋力、体力を鍛え直すのに一年をかけた夏に、富士登山を決行した。八時間かかって頂上に到達し、山小屋で日が昇るのを待った。
当日は晴天で、御来光が差した時、私は妻の遺影を両手で持ち、届けとばかりに御来光に向け、人目もはばからず大声で妻の名前を叫び続けた。その時だった。
「お父ちゃん、いつまで寝てんのん」と、嫁はんにたたき起こされた。
(了)