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第57回「小説でもどうぞ」選外佳作 そして誰も嵐が丘の十角館からいなくなった 南方潤三

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小説
小説でもどうぞ
第57回結果発表
課 題

裏切り

※応募数434編
選外佳作 

そして誰も嵐が丘の十角館からいなくなった 
南方潤三

 晴天だった日中の面影も残さず、嵐が洋館を孤立させた。
 探偵・岩渕は暖炉の前に立ち、六人の招待客に視線を向けた。そろそろ死体が出る頃合いだ、と彼は思った。資産家の老人・野見山直人、水商売上がりの雰囲気のある若い後妻、神経質そうに腕を組む長男、憮然としている秘書、老人の主治医、そして遠縁の親戚という触れ込みの怪しげな女。配役は完璧だった。
 しかし十一時になっても、十二時を過ぎても誰も死ななかった。誰も叫ばなかった。十時過ぎに停電になったもののすぐに予備電源で復旧してしまった。書斎のドアは静かに閉まったままで、毒の入った紅茶は誰にも出されず、凶器になるはずだったゲオルギオスの石膏はただの置物となっている。パリの連続殺人鬼も好んだ職人によるナイフも夕食のステーキを切るために使われた。食後のデザートはタルトタタンで、全員がおいしいと喜んだ。
 岩渕は困った。彼は資産家の野見山老人に声をかけた。
「お体の具合はよろしいですか。」
「おかげさまで絶好調ですよ」とにこやかだった。
「最近は毎朝ヨガをしていましてね。血圧も正常、コレステロールも問題なし。先生にも褒められましてね。」
 隣の主治医がにこやかに頷いた。
「健康意識も高くて本当に優秀な患者さんです。」
「そうですか」と岩渕は言った。
 岩渕は助手の八代に耳打ちした。「何かおかしい。この館には殺意が漂っていない」
「それは良いことでは?」と助手はきょとんとしていた。
 良いことだった。しかし岩渕は困った。探偵というのは事件がなければ何もできない生き物なのだ。
 午前一時、岩渕はしびれを切らして長男の隣に座る。「遺産の配分に不満がありませんか?」
「まさか」と長男は激しく首を振った。
「遺産のことは話し合いをして父も僕も納得いく形にしてもらって感謝しています。父は神経質な僕に不安がないようにすごく考えてくれてるんですよ」
「……後妻との折り合いは?」
「年齢も近いし最初はぎこちなかったですが、今では良い人だと思っています。先日、三人で温泉旅行に行って楽しい時間を過ごしました。」長男は三人が仲良く写る写真を見せてくれた。
 岩渕は派手な後妻に話しかけた。
「前の夫との間にトラブルは?」
「前の夫とは病気での死別です。今の夫が不安定な時期を精神的に支えてくれて本当に感謝しています。」後妻は微笑んだ。「直人さんと出会えて、本当に幸せです。」
 岩渕は秘書に向かった。
「横領の件は?」
「もう六年前に発覚して、全額弁済しました。野見山様には今でも頭が上がりません。あのとき見捨てずにいてくれたから今の自分があります。」秘書は目を潤ませた。「許してもらえると思ってなかったので、一生かけて恩を返していくつもりです」
 岩渕の額に汗が浮かび始める。遠縁の親戚という女に話しかける。「遺産目的でこの家に近づいたのでは?」
「違います」と女はきっぱり言った。「一人旅の帰りに嵐に遭って、親戚の縁で泊めてもらいました。明日の朝には失礼します」
 全員の動機が、丁寧に、完璧に、解決された。
 岩渕は窓の外を見た。嵐はとっくに止んでいた。星が美しいくらいだ。橋も復旧しているだろう。帰ろうと思えば今すぐにでも帰れた。
「どうします?」と助手の八代が聞いた。
「謎を解かなければならない」と岩渕は静かに言った。
「でも事件が……」
「ないのはわかっている!」
 岩渕は館中を歩き回った。隠し部屋を探した。毒薬の瓶を探した。血痕を探した。暗号めいたメモを探した。絵画の裏を確認した。暖炉の灰をかき回した。何もなかった。床下を叩くと均一な音がした。屋根裏には古いクリスマスの飾りがきれいに箱に収められていた。地下室は立派なワインセラーで、野見山老人が「よければ一本どうぞ」と朗らかに言った。
 午前三時、岩渕はソファに倒れこむように座り込んだ。
「完敗だ」と彼は言った。
「何にですか?」と助手は言った。
「幸福な家族に。」
 助手はしばらく考えてから言った。「そもそも、なぜ先生はここに呼ばれたんですか?」
 岩渕は依頼書を取り出した。
「野見山直人氏より『館に何かがある気がする。調査してほしい』との依頼だ」
「何かある気がする、ですか……」
「そうだ!」
 二人は黙った。
 気が付くと朝になった。招待客たちは朝食を食べ、和やかに談笑した後、順番に帰っていった。野見山老人は最後に岩渕の手を握り、
「おかげで安心しました。やっぱり何もなかったですね」と言った。後妻は手作りのクッキーを持たせてくれた。紅茶の茶葉のいい香りがする。
 帰りの車の中で、助手は嬉しそうにクッキーをかじりながら言った。
「良い人たちでしたね」
「ああ……」と岩渕は遠い目をして言った。
「最悪だ」
「依頼料はもらえるんですか?」
「もらった。相場の三倍だ」
 じゃあ良かったじゃないですか!」
 岩渕は何も言わなかった。窓の外では朝の光の中、菜の花畑が穏やかに続いていた。どこにも陰謀はなく、どこにも毒薬はなく、どこにも死体はなかった。ただ気持ちのいい晴れた朝があるだけだった。
「次の依頼は事件ありますかね」と助手は言った。
「どうだろう……」と岩渕は言った。
「最近、世の中が平和すぎる」
 彼はそれを、職業的な意味で深刻に嘆いていた。
(了)