第12回「小説でもどうぞ」選外佳作 倉庫チーフ田中さん/齊藤想
第12回結果発表
課 題
休暇
※応募数242編
選外佳作
「倉庫チーフ田中さん」
齊藤想
「倉庫チーフ田中さん」
齊藤想
手越係長は、倉庫チーフの田中さんのことが気になって仕方がなかった。田中さんは高卒で入社して勤続四十二年。いままで一度も休暇を取ったことがない。
倉庫チーフと言っても、特別な仕事があるわけではない。部下もいない。一日中倉庫で待機して、物品の依頼があると倉庫内を探しまわり、揃えて引き渡す。だれにでもできる仕事だ。
いてもいなくても、会社に何の影響も与えない。それが田中さんだ。
田中さんは、創業者である先代社長の親戚らしい。先代社長から「一日も休まないこと」を条件に縁故採用され、田中さんは先代社長との約束を愚直に守り、土日祝日どころかお盆や正月まで出社する。しかも誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰る。
深夜の倉庫など恐怖だ。誰もいないと思って近づくと、暗闇から田中さんがぬっと顔を出す。若手社員などは気味悪がって、倉庫に近づこうともしない。
このままではいけない。田中さんに休暇を取らせよう。それが、手越係長のライフワークになりつつあった。
お盆の日、手越係長は愚痴をこぼしながら出社した。今年は帰省する予定だったのだが、取り引き先から急ぎの納品依頼があり、やむなく職場に向かったのだ。
無人のオフィスから伝票を手に倉庫に向かうと、田中さんがいた。空調のない倉庫の中で、全身から汗を吹き出しながら、じっと椅子に座っている。
田中さんは汗だらけの両手をタオルで拭ってから伝票に目を通すと、ほどなくして全ての商品を揃えてくれた。五分とかからない。
田中さんが伝票に出庫のサインをしているときに、手越係長は声をかけた。
「ところで田中さん。たまには休みを取られたらどうですか。わざわざお盆まで出勤しなくてもいいのに」
田中さんは、不愛想に首を横に振った。
「休むとみんなに迷惑がかかります」
手越係長は吹き出しそうになった。田中さんが休んで困る社員はひとりもいない。
「いまは会社としても社員に適度な休息を取らせる義務があるんだ。万が一、田中さんが倉庫で倒れられたら大問題だ」
「私には難しいことはわからないですけど、先代社長との約束がありますから」
いつもこんな調子だ。手越係長は作戦を変更した。
「田中さんはもうすぐ定年だけど、定年になったらしたいことはないのかな」
田中さんは寡黙だ。だが、職場に二人しかいないという特別な空気が、田中さんの口を少し滑らかにした。
「電車に乗りたいです。東京の電車は乗客が多いそうですね」
手越係長は、田中さんの意外な趣味に驚いた。田中さんは続ける。
「デパートにも行きたいです。ものすごく長いエスカレーターがあるそうですね。若者が集まる公園も行きたいです。いろいろな方と交流ができそうです」
手越係長は気がついた。田中さんは職場とアパートの往復だけで四十二年間過ごしてきた。もっと広い世界を知りたいのだ。
「おれに任せておけ」
手越係長は自分の胸を叩いた。
「定年前の練習だと思って、休んで羽を伸ばしてきなよ。会社はチームだ。困ったことがあったら、助け合えばいいんだから」
「しかし……皆さんが……」
「先代が亡くなってもう十年。田中さんはいままで頑張ってきた。したいこともせずに我慢してきた。田中さんが休むことについて、だれからも文句を言わせない」
田中さんの目が、かすかに滲んだ。田中さんが、深々と頭を下げる。
「手越係長の優しさに胸がしみました。明日は休ませていただきます。みなさんにご迷惑をおかけするかもしれませんが、そのときはご容赦ください」
「困ったときはお互い様だ。何かったら助けてやるから安心しろ」
田中さんの背中が小さくなった。
手越係長はやれやれ、と思った。
田中さんは、初めての休暇に心躍らせた。
先代社長は田中さんの趣味を憂い、そのために一年中職場に縛りつけていた。だが、明日はその頸木から解き放たれる。しかも、手越係長のお墨付きなのだ。
さあ、何から始めようか。休暇は有効に使わなくては。
まずは電車に乗って痴漢を楽しみ、次にデパートのエスカレーターで盗撮を満喫し、そして最後に若者が集まる公園で露出行為をして……。
(了)
倉庫チーフと言っても、特別な仕事があるわけではない。部下もいない。一日中倉庫で待機して、物品の依頼があると倉庫内を探しまわり、揃えて引き渡す。だれにでもできる仕事だ。
いてもいなくても、会社に何の影響も与えない。それが田中さんだ。
田中さんは、創業者である先代社長の親戚らしい。先代社長から「一日も休まないこと」を条件に縁故採用され、田中さんは先代社長との約束を愚直に守り、土日祝日どころかお盆や正月まで出社する。しかも誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く帰る。
深夜の倉庫など恐怖だ。誰もいないと思って近づくと、暗闇から田中さんがぬっと顔を出す。若手社員などは気味悪がって、倉庫に近づこうともしない。
このままではいけない。田中さんに休暇を取らせよう。それが、手越係長のライフワークになりつつあった。
お盆の日、手越係長は愚痴をこぼしながら出社した。今年は帰省する予定だったのだが、取り引き先から急ぎの納品依頼があり、やむなく職場に向かったのだ。
無人のオフィスから伝票を手に倉庫に向かうと、田中さんがいた。空調のない倉庫の中で、全身から汗を吹き出しながら、じっと椅子に座っている。
田中さんは汗だらけの両手をタオルで拭ってから伝票に目を通すと、ほどなくして全ての商品を揃えてくれた。五分とかからない。
田中さんが伝票に出庫のサインをしているときに、手越係長は声をかけた。
「ところで田中さん。たまには休みを取られたらどうですか。わざわざお盆まで出勤しなくてもいいのに」
田中さんは、不愛想に首を横に振った。
「休むとみんなに迷惑がかかります」
手越係長は吹き出しそうになった。田中さんが休んで困る社員はひとりもいない。
「いまは会社としても社員に適度な休息を取らせる義務があるんだ。万が一、田中さんが倉庫で倒れられたら大問題だ」
「私には難しいことはわからないですけど、先代社長との約束がありますから」
いつもこんな調子だ。手越係長は作戦を変更した。
「田中さんはもうすぐ定年だけど、定年になったらしたいことはないのかな」
田中さんは寡黙だ。だが、職場に二人しかいないという特別な空気が、田中さんの口を少し滑らかにした。
「電車に乗りたいです。東京の電車は乗客が多いそうですね」
手越係長は、田中さんの意外な趣味に驚いた。田中さんは続ける。
「デパートにも行きたいです。ものすごく長いエスカレーターがあるそうですね。若者が集まる公園も行きたいです。いろいろな方と交流ができそうです」
手越係長は気がついた。田中さんは職場とアパートの往復だけで四十二年間過ごしてきた。もっと広い世界を知りたいのだ。
「おれに任せておけ」
手越係長は自分の胸を叩いた。
「定年前の練習だと思って、休んで羽を伸ばしてきなよ。会社はチームだ。困ったことがあったら、助け合えばいいんだから」
「しかし……皆さんが……」
「先代が亡くなってもう十年。田中さんはいままで頑張ってきた。したいこともせずに我慢してきた。田中さんが休むことについて、だれからも文句を言わせない」
田中さんの目が、かすかに滲んだ。田中さんが、深々と頭を下げる。
「手越係長の優しさに胸がしみました。明日は休ませていただきます。みなさんにご迷惑をおかけするかもしれませんが、そのときはご容赦ください」
「困ったときはお互い様だ。何かったら助けてやるから安心しろ」
田中さんの背中が小さくなった。
手越係長はやれやれ、と思った。
田中さんは、初めての休暇に心躍らせた。
先代社長は田中さんの趣味を憂い、そのために一年中職場に縛りつけていた。だが、明日はその頸木から解き放たれる。しかも、手越係長のお墨付きなのだ。
さあ、何から始めようか。休暇は有効に使わなくては。
まずは電車に乗って痴漢を楽しみ、次にデパートのエスカレーターで盗撮を満喫し、そして最後に若者が集まる公園で露出行為をして……。
(了)