第10回「小説でもどうぞ」選外佳作 邯鄲の猫/ナラネコ
第10回結果発表
課 題
夢
※応募数291編
選外佳作
「邯鄲の猫」
ナラネコ
「邯鄲の猫」
ナラネコ
矢木哲也は公園のベンチに腰を下ろすと、大きく伸びをした。会社を退職してから半年が過ぎようとしている。失業手当を貰うための最低限の求職活動はしているが、働こうという気持ちが湧いてこない。
思えば人生の大きな分岐点は学生時代にあった。卒業前に友人から二人でベンチャー企業を立ち上げないかという誘いを受けたのだが、中堅の機械メーカーに就職が決まっていた彼は冒険を避け、誘いを断ったのだ。
リスクを考え、生活の安定を選んだはずなのに哲也の思惑は外れた。彼が入社して与えられた仕事は、望んでいたシステムの研究開発ではなく、社内SEと呼ばれる、コンピュータの操作に慣れない社員への指導や機器のトラブルへの対応といった雑事であった。苦情を持ち込まれることが多く、神経をすり減らす業務だ。仕事が終わり、電車に揺られ、一人暮らしのマンションに戻った時はぐったりして、シャワーを浴びて寝るだけの日が続いた。入社して十数年が過ぎても生活は変わらず、ついに退職を決意したのだった。
収入を失った代わりに自由を手に入れた彼は、気の向くままどこに行くこともできた。マンションを出て住むことになった安アパートには、帰りを待つ家族はいない。職安が休みの土曜日に、あてもなく外を歩いていた時、ふらりとこの公園に来てしまったのだ。
ちょうど昼食どきだったので、コンビニに寄っておにぎりを三個とペットボトルのウーロン茶を買った。公園には藤棚があり、初夏の日差しを遮ってくれる。ベンチが二脚並んでおり、片方のベンチには茶色い猫が昼寝をしていた。心なしか、こちらのほうをじっと見ているような気がする。哲也は買ってきた三個のおにぎりのうち、カツオブシ入りの一個を気前よく投げてやると、ベンチの上にごろりと横になって目を閉じた。
「おい、哲也君」
どこからか自分を呼ぶ声がするので、哲也は目を開けた。上半身を起こして周囲を見回しても誰もいない。空耳かと思っていると、
「わしじゃよ。わし」
今度ははっきりと聞こえる。ふと横を見ると、さっきおにぎりをやったばかりの猫がこちらを見ている。声はこの猫の方から聞こえるようだ。頭がどうかしたのかと思い見ていると、何とその猫は口を開いてしゃべった。
「気のせいなんかじゃないぞ。わしはお前の守り神なんじゃ」
不思議な出来事だったが、彼は引きこまれるように猫との会話に入っていった。
「守り神って、どうして猫が神様なんだ」
哲也が聞くと、その猫は、
「誰にでも守り神というものがおってな。様々なものに姿を変えているのじゃ。お前さんは前世から猫に縁があるので、わしは猫の姿で現れているというわけじゃ」
そう言えば、猫は哲也が好きな動物だ。昼食を分けてやったのも猫好きだったからだ。
「じゃあ、どうして今日は僕の前に正体を現してくださったんですか」
神様と分かり、言葉遣いも少し丁寧になる。
「それは、最近あんたが元気がなさそうじゃから、助けてやろうと思ったのじゃ。何か願い事があったら一つかなえてやろう」
「そうですね。それじゃあ、一つお願いします。どうしても知りたいことがあるのです」
「それはどういうことじゃ」
「僕の人生は、今、どうみてもうまくいっているとは思えません。でも、学生時代までは順調だったのです。そこで、もしその頃に僕が違う道を選んでいたらどうなっていたのかを知りたいのです」
猫、いや神様も、この男の変わった頼みに興味を抱いてきたようだった。
「どのようにして知りたいのじゃ」
「邯鄲の枕という有名な故事がありますが、波乱万丈の人生も夢として見ればほんの短い時間です。学生時代から今までの年数は十数年間。それがどうなっていく可能性があったのか、夢に見たいのです」
「そうか。ただそれだけでいいのか」
猫はそう言うと、じっと哲也の顔を見た。体を起こしていた哲也は、またベンチに体を横たえた。瞼がしだいに重くなっていく。
寝息を立てている哲也の横で、猫、いや神様は考えた。妙な男だ。たいていの人間は願い事をかなえてやると言われると、欲の皮が突っ張ってきて、宝くじで一億円当たるようにしてほしいとか、虫のいい要求をするものだ。過ぎたことを夢に見ても何の足しにもならない。よほど過去に未練があるのだろう。さて、どうしたものか。身勝手な願い事には逆にお灸をすえてやったりするのだが、この男には何を与えてやればよいのだろう。
猫に姿を変えた神様は、しばらく首をひねって考えていたが、何を思いついたのかうなずくと、その場を離れた。そしていつの間にか哲也の姿も見えなくなっていた。
(了)
思えば人生の大きな分岐点は学生時代にあった。卒業前に友人から二人でベンチャー企業を立ち上げないかという誘いを受けたのだが、中堅の機械メーカーに就職が決まっていた彼は冒険を避け、誘いを断ったのだ。
リスクを考え、生活の安定を選んだはずなのに哲也の思惑は外れた。彼が入社して与えられた仕事は、望んでいたシステムの研究開発ではなく、社内SEと呼ばれる、コンピュータの操作に慣れない社員への指導や機器のトラブルへの対応といった雑事であった。苦情を持ち込まれることが多く、神経をすり減らす業務だ。仕事が終わり、電車に揺られ、一人暮らしのマンションに戻った時はぐったりして、シャワーを浴びて寝るだけの日が続いた。入社して十数年が過ぎても生活は変わらず、ついに退職を決意したのだった。
収入を失った代わりに自由を手に入れた彼は、気の向くままどこに行くこともできた。マンションを出て住むことになった安アパートには、帰りを待つ家族はいない。職安が休みの土曜日に、あてもなく外を歩いていた時、ふらりとこの公園に来てしまったのだ。
ちょうど昼食どきだったので、コンビニに寄っておにぎりを三個とペットボトルのウーロン茶を買った。公園には藤棚があり、初夏の日差しを遮ってくれる。ベンチが二脚並んでおり、片方のベンチには茶色い猫が昼寝をしていた。心なしか、こちらのほうをじっと見ているような気がする。哲也は買ってきた三個のおにぎりのうち、カツオブシ入りの一個を気前よく投げてやると、ベンチの上にごろりと横になって目を閉じた。
「おい、哲也君」
どこからか自分を呼ぶ声がするので、哲也は目を開けた。上半身を起こして周囲を見回しても誰もいない。空耳かと思っていると、
「わしじゃよ。わし」
今度ははっきりと聞こえる。ふと横を見ると、さっきおにぎりをやったばかりの猫がこちらを見ている。声はこの猫の方から聞こえるようだ。頭がどうかしたのかと思い見ていると、何とその猫は口を開いてしゃべった。
「気のせいなんかじゃないぞ。わしはお前の守り神なんじゃ」
不思議な出来事だったが、彼は引きこまれるように猫との会話に入っていった。
「守り神って、どうして猫が神様なんだ」
哲也が聞くと、その猫は、
「誰にでも守り神というものがおってな。様々なものに姿を変えているのじゃ。お前さんは前世から猫に縁があるので、わしは猫の姿で現れているというわけじゃ」
そう言えば、猫は哲也が好きな動物だ。昼食を分けてやったのも猫好きだったからだ。
「じゃあ、どうして今日は僕の前に正体を現してくださったんですか」
神様と分かり、言葉遣いも少し丁寧になる。
「それは、最近あんたが元気がなさそうじゃから、助けてやろうと思ったのじゃ。何か願い事があったら一つかなえてやろう」
「そうですね。それじゃあ、一つお願いします。どうしても知りたいことがあるのです」
「それはどういうことじゃ」
「僕の人生は、今、どうみてもうまくいっているとは思えません。でも、学生時代までは順調だったのです。そこで、もしその頃に僕が違う道を選んでいたらどうなっていたのかを知りたいのです」
猫、いや神様も、この男の変わった頼みに興味を抱いてきたようだった。
「どのようにして知りたいのじゃ」
「邯鄲の枕という有名な故事がありますが、波乱万丈の人生も夢として見ればほんの短い時間です。学生時代から今までの年数は十数年間。それがどうなっていく可能性があったのか、夢に見たいのです」
「そうか。ただそれだけでいいのか」
猫はそう言うと、じっと哲也の顔を見た。体を起こしていた哲也は、またベンチに体を横たえた。瞼がしだいに重くなっていく。
寝息を立てている哲也の横で、猫、いや神様は考えた。妙な男だ。たいていの人間は願い事をかなえてやると言われると、欲の皮が突っ張ってきて、宝くじで一億円当たるようにしてほしいとか、虫のいい要求をするものだ。過ぎたことを夢に見ても何の足しにもならない。よほど過去に未練があるのだろう。さて、どうしたものか。身勝手な願い事には逆にお灸をすえてやったりするのだが、この男には何を与えてやればよいのだろう。
猫に姿を変えた神様は、しばらく首をひねって考えていたが、何を思いついたのかうなずくと、その場を離れた。そしていつの間にか哲也の姿も見えなくなっていた。
(了)