第10回「小説でもどうぞ」選外佳作 元カレ /名嘉山レイ
第10回結果発表
課 題
夢
※応募数291編
選外佳作
「元カレ」
名嘉山レイ
「元カレ」
名嘉山レイ
すでに覚悟は出来ている。自分にそう言い聞かせて、喫茶ラウンジ、サモワールに足を一歩踏み入れる。
「比嘉です。ずっとお元気でしたか?」
今朝の十時過ぎ、突然、職場にかかってきた電話で、会うことになった。三年前、二十七歳の時に別れた男と。
心の羅針盤が目的の方向を指し示した。三つ先の一番右奥のテーブルに、ベージュ色の壁を背にした比嘉健治が座っている。平静さを装いながら近づいていく。エンジ色の絨毯が、シュクシュクと高さ七センチのヒール音を吸い込む。
ドレープをたっぷりとったブルーの花柄のワンピースの裾が揺れる。三年前より三キロは痩せた。それが少なからず以前の小太り体型から免れ、小柄なワンピース姿をいくらか優雅に見せているはずだ。
目的の場所へと近づきながら、三年前、比嘉健治が発した別れ際の台詞が脳裏をよぎる。秋が深まりゆく季節だった。「正直、君には手が出なかった。すまない……」。
あの直後から、気がつけば『比嘉健治シンドローム』になっていた。比嘉健治に似た彫の深い男性。二人で出かけた京都や奈良。比嘉健治とすごしたクリスマス・イブ。ニューイヤーコールを受けながら聞いた除夜の鐘。それらに関連した物事にしか、私の心は反応しなくなった。
現に今も、それぞれのテーブルで談笑する人々が、特別意識にとまることはない。ふらりと一人旅に出た若者が目にする車窓を流れる風景のようだ。ゆっくりした足取りで近づいていく。
店内には、ナット・キング・コールの「アンフォアゲタブル」がかかっている。まるで自分のこの三年を歌ってくれているかのようだ。その忘れられなかった相手は、すぐそこにいる。
たそがれどきを演出した照明のなかで、比嘉健治がこちらを見ていた。と、もうそれだけで気が遠くなる。一歩、二歩、三歩と近づく。「アンファゲタブル」のメロディーが遠のく。代わってドン、ドン、ドンという和太鼓の音が聞こえる。だがそれは、耳に届く音ではない。自身の鼓動だった。緊張感で胸の高鳴りが激しさをます。気が付けば、比嘉健治の前に立っていた。
初め相手は、ゆっくりと顔を上げ、何か言いたそうだった。だが、言葉はなかった。黒い皮製のソファに坐ろうとする私を比嘉健治がずっと目で追い続けてくる。空白の三年を詮索するような、それでいて、それを即座に戒めるような視線だった。
伏し目がちに椅子に座った直後、視線の先で相手のただ一点が、眩しいまでにキラリと光った。その光り物が心のネガに焼き付く。結婚指輪だ。動揺した感情を見透かされまいと、光り物には目もくれず、ごく自然に顔を上げる。
目の前の相手にさっと視線を走らせる。彫りの深い顔立ちに、黒と白のチェックのジャケットが似合っている。何の野心もない。計算もない。哲学もない。そんな顔だ。それなのに、私にとっては圧倒的な存在感がある。この不思議を、愛と呼ぶのか。恋と呼ぶのか。錯覚と呼ぶのか。
比嘉健治が、紛れもなく目の前に座っている。もうそれだけでほろ酔い気分だ。このまま酔いたい。むかしの恋人同士。酒の肴はそれで十分じゃないか。
「よかったのかなあ。こんな形で会っても」
酔いが一瞬にして醒めそうな一言だった。だが醒めはしない。別れたあともずっと思い続けていた。その相手と、今こうして会っている。もうそれだけでじゅうぶん幸せだ。理屈ではなく比嘉健治が好きだった。出会った瞬間も、付き合っていた頃も、別れを言い出された直後も、空白の三年間も、今この瞬間も好きでたまらない。すでに心が宙に舞っている。何かが始まる。そんな気がした。
比嘉健治は今、どういう立場にいるのだろう。あのとき、妊娠していた、つい手を出してしまったといっていた女性と幸せに暮らしているのだろうか。とすると、三十二歳の比嘉健治は今、一児の父親? いや、二児の父親になっている可能性だってある。それでもいいと思った。もう一度何かが始まるのなら。
「もういいっすか?」
比嘉健治が急にぞんざいな口を聞いた。
「先輩の昔の恋人と同姓同名。おまけにルックスまでそっくりだからって、やっぱりこんな役、ご免こうむりますよ。昔の恋人を未だに忘れられないから、不倫に発展するシチュエーションを夢見て体感したいって、先輩、どうかしてるんじゃないっすか。結婚指輪まで俺にはめろって命令してさあ。もらった三万円。半分かえしますよ。じゃ」
(了)
「比嘉です。ずっとお元気でしたか?」
今朝の十時過ぎ、突然、職場にかかってきた電話で、会うことになった。三年前、二十七歳の時に別れた男と。
心の羅針盤が目的の方向を指し示した。三つ先の一番右奥のテーブルに、ベージュ色の壁を背にした比嘉健治が座っている。平静さを装いながら近づいていく。エンジ色の絨毯が、シュクシュクと高さ七センチのヒール音を吸い込む。
ドレープをたっぷりとったブルーの花柄のワンピースの裾が揺れる。三年前より三キロは痩せた。それが少なからず以前の小太り体型から免れ、小柄なワンピース姿をいくらか優雅に見せているはずだ。
目的の場所へと近づきながら、三年前、比嘉健治が発した別れ際の台詞が脳裏をよぎる。秋が深まりゆく季節だった。「正直、君には手が出なかった。すまない……」。
あの直後から、気がつけば『比嘉健治シンドローム』になっていた。比嘉健治に似た彫の深い男性。二人で出かけた京都や奈良。比嘉健治とすごしたクリスマス・イブ。ニューイヤーコールを受けながら聞いた除夜の鐘。それらに関連した物事にしか、私の心は反応しなくなった。
現に今も、それぞれのテーブルで談笑する人々が、特別意識にとまることはない。ふらりと一人旅に出た若者が目にする車窓を流れる風景のようだ。ゆっくりした足取りで近づいていく。
店内には、ナット・キング・コールの「アンフォアゲタブル」がかかっている。まるで自分のこの三年を歌ってくれているかのようだ。その忘れられなかった相手は、すぐそこにいる。
たそがれどきを演出した照明のなかで、比嘉健治がこちらを見ていた。と、もうそれだけで気が遠くなる。一歩、二歩、三歩と近づく。「アンファゲタブル」のメロディーが遠のく。代わってドン、ドン、ドンという和太鼓の音が聞こえる。だがそれは、耳に届く音ではない。自身の鼓動だった。緊張感で胸の高鳴りが激しさをます。気が付けば、比嘉健治の前に立っていた。
初め相手は、ゆっくりと顔を上げ、何か言いたそうだった。だが、言葉はなかった。黒い皮製のソファに坐ろうとする私を比嘉健治がずっと目で追い続けてくる。空白の三年を詮索するような、それでいて、それを即座に戒めるような視線だった。
伏し目がちに椅子に座った直後、視線の先で相手のただ一点が、眩しいまでにキラリと光った。その光り物が心のネガに焼き付く。結婚指輪だ。動揺した感情を見透かされまいと、光り物には目もくれず、ごく自然に顔を上げる。
目の前の相手にさっと視線を走らせる。彫りの深い顔立ちに、黒と白のチェックのジャケットが似合っている。何の野心もない。計算もない。哲学もない。そんな顔だ。それなのに、私にとっては圧倒的な存在感がある。この不思議を、愛と呼ぶのか。恋と呼ぶのか。錯覚と呼ぶのか。
比嘉健治が、紛れもなく目の前に座っている。もうそれだけでほろ酔い気分だ。このまま酔いたい。むかしの恋人同士。酒の肴はそれで十分じゃないか。
「よかったのかなあ。こんな形で会っても」
酔いが一瞬にして醒めそうな一言だった。だが醒めはしない。別れたあともずっと思い続けていた。その相手と、今こうして会っている。もうそれだけでじゅうぶん幸せだ。理屈ではなく比嘉健治が好きだった。出会った瞬間も、付き合っていた頃も、別れを言い出された直後も、空白の三年間も、今この瞬間も好きでたまらない。すでに心が宙に舞っている。何かが始まる。そんな気がした。
比嘉健治は今、どういう立場にいるのだろう。あのとき、妊娠していた、つい手を出してしまったといっていた女性と幸せに暮らしているのだろうか。とすると、三十二歳の比嘉健治は今、一児の父親? いや、二児の父親になっている可能性だってある。それでもいいと思った。もう一度何かが始まるのなら。
「もういいっすか?」
比嘉健治が急にぞんざいな口を聞いた。
「先輩の昔の恋人と同姓同名。おまけにルックスまでそっくりだからって、やっぱりこんな役、ご免こうむりますよ。昔の恋人を未だに忘れられないから、不倫に発展するシチュエーションを夢見て体感したいって、先輩、どうかしてるんじゃないっすか。結婚指輪まで俺にはめろって命令してさあ。もらった三万円。半分かえしますよ。じゃ」
(了)