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第10回「小説でもどうぞ」選外佳作 湯のない銭湯 /池月迅

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第10回結果発表
課 題

※応募数291編
選外佳作
「湯のない銭湯」
池月迅
 源三は脚立やペンキ缶を軽トラックの荷台に積み込んだ後、施主に一礼した。助手席に乗り込むと、エアコンがうねりを上げる中、広太がスマホを右耳に当てていた。
「夏だけにお疲れサマー! ちょっと待ってな。飲み屋にかけてんだけど、電話に出んわ」 「この暑いのに、よく口の回る奴だな」
「今日で工務店を辞めちまうんだろ。最後に一杯と思ってさ」
「ありがてえが、またにしてくれ。明日は朝が早えんだ」
 広太はつまらなそうに電話を切り、ポケットにねじ込むと、事務所に向け車を走らせた。
「そういえば聞いたよ。社長にねだって、解体間近の銭湯を借りたんだって。何すんの? オネエチャンでも連れ込んで悪さしようっていうのかい」とからかう広太を源三は、「悪かねえな。こんな歯も欠けたじじい爺を相手してくる物好きがいるならな」と軽くいなした。
 翌早朝、真新しい作業着を纏った源三は、木造の古めかしい銭湯の前に車を駐めた。もはや施錠もされていない戸口から土足のまま奥に向かうと、立て付けの悪いサッシを開き、乾いた浴場に足を踏み入れた。窓という窓を開け放ち、明かりを採る。電気も水も止められていたが、最近まで営業していたため、床や壁の埃は、さほどでない。
 ――これなら壁を拭かずにそのまま取りかかれるな。
 落剥した壁絵の前に足場を組むと、チョークで荒い下絵を描いた。右の稜線に宝永火口を見据える構図だ。ローラーで空を塗りつぶしてから、富士を手がける。刷毛で山頂から裾野へとグラデーションをつけた。刷毛を筆に持ち替える。今日のために買い込んだ、山のようなバケツで調色し、日光が織りなす陰翳を、時に赤く、時に青く塗り込めた。
 子供の頃から絵が好きだった。特に校舎の窓から臨む富士に憧れ、ノートに何度も写生した。詰め襟を着て受験勉強に励んだ頃、「田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける」というやまべのあかひと山部赤人の歌を学び、その情景をいつか大キャンパスに収めたいと思った。源三はその五十年越しの夢を叶えようとしていた。
壁の下方には、白砂青松の入江から出帆する小舟を描いた。波に船首を持ち上げられたところで、船頭が後ろを振り返っている。いただき頂に積もった雪とたなびく雲を、濃淡のある白で描き終えた頃には、すでに夕闇が迫っていた。源三は足場から降りると左下隅に、「Genzo Taguchi」と黒ペンキで署名した。
 それを待ちかねたように、入口近くから拍手が鳴り、浴場内にこだました。
「源さん、すげえよ! 美大を出たって聞いたけど、なんでペンキ屋なんかになったの?」
 出勤日とは異なる、小洒落たジャケットを羽織った広太が、見開いた目を輝かせていた。
「お前、来てたのか。……そうさなあ、出来ることなら、脚立じゃなくイーゼルを抱え、刷毛じゃなく絵筆を取って旅する人生を送りたかったな」
「仕事も終わったんだ。これから出掛けりゃいいじゃん」
「もうそんな体力もなきゃあ、先立つものもねえよ……。だからな、これが俺の生涯最後の作品、ここは展示品一点限りの個展会場なんだ」
 源三が薄い西日に照らされた壁画を見渡しながら、呟いた。沈黙が二人を包んだ。
「銭湯がやってるうちに描いて欲しかったなあ。風呂に浸かりながら、これをながめてさ」
 広太は乾いた湯船に入り、腰を下ろし、湯をもてあそぶ真似をした。しばらくすると、何かにはじかれたように立ち上がった。
「そうだ、ここで飲もう! 昨日源さんにフラれたから、改めて誘いに来たけど、迫力マウンテンをおいて出掛けるなんて勿体ない。酒を買ってきて、ここで一杯やろうよ」
「悪かねえな……。でも、懐中電灯がいるか」と、源三は顎を上げ、大口を開けて笑った。
 まず、陽のあるうちに道具を運びだそうとし、もはやそれらが自分に不要だと気づいた。
 ――どうせ明日には取り壊しになる建物だ。捨てていっても怒られめえ。
 買い出しに向かおうと、広太とともに戸口を出たところで、源三が足を止めた。
「すまんが、一人でスーパーまで行ってきてくれねえか。もう一つ仕事を思いついたんだ」
 口をとがらす広太をなだめ送り出すと、源三は黒ペンキと細筆を足場から取って戻った。
 ――一夜限りの営業か。でもこのダジャレ、広太の野郎には分かってもらえねえだろうな。
 源三は一人苦笑しながらも、したり顔で、電気の点らぬ「湯」の看板の上に、隷書で「田子の浦」と記した。
(了)