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第9回「小説でもどうぞ」佳作 山へ/藤野寝子

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作文・エッセイ
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小説でもどうぞ
第9回結果発表
課 題

冒険

※応募数260編
「山へ」藤野寝子
 春は山菜の季節だ。長い冬が明けて雪解けと同時にまず、ふきのとうが芽を出す。愛らしい姿と鮮やかな黄緑色が目を癒す。僅かに溶け残った雪の白によく映え、絵はがきのようである。毎年のことではあるが、収穫を目的に山へ入るのに、この光景を見ると収穫してしまうのを勿体なく感じてしまう。けれど、人間も動物と変わらないのはその食欲である。本能には敵わない。男はふきのとうを摘みながら、屈み込んだ自分の姿に冬眠から目覚め、鼻息荒く餌を探し求める熊を重ね、ふっと笑った。
 この山に熊はいない。いくら自分の家の裏山といえども、熊だの猪だのが出るのでは呑気に山菜採りともいかないだろう。山として大きくはなくとも、人間が利用するのに都合のいい土地を遺してくれた先祖に感謝しなければなるまい。幼い頃から慣れ親しんだこの山を、愛おしい、と男は思う。ふきのとうが終われば次はワラビにタラの芽だ。男は山の空気を胸いっぱいに吸い込む。冬の終わり、春の芽吹き、雪の白と若い緑の香りが鼻腔を通って男を満たす。男は目を瞑ってじっくりとその香りを楽しんだ。
 季節は過ぎ、もう、夏の到来だ。
 男はやはり山に出掛ける。気温が高くても虫除けのために長袖、長ズボンという出で立ちである。しかし、木が生い茂る山中では日差しも程よく遮られ、案外快適である。いつだって山の中では不快だということがない。いつでも来られるし、それでいていつでも新しい姿を見せてくれる。山の季節は目まぐるしく変わってゆく。
 今日の目当ては山に自生する枇杷の実だ。緩やかな斜面を家とちょうど正反対の方角へ山を迂回するように歩いてゆく。しばらく行くと高い位置に橙色の丸い果実をすずなりにつけた枇杷の木の前に出る。豊かな実りに、ほお、と声を漏らして感心し、男は気分を高揚させた。
 背負ってきた竹籠を地面に降ろし、身軽になって木によじ登る。剪定などはしていないから、伸び放題で入り組んだ枝をうまく避けながら登ってゆかなければならない。男の体重を支えられそうにない、まだ若くて細すぎる枝に足をかけないようにも注意を払う。けれど、毎年のことであるから慣れたもので、すいすいと登ってゆける。全身の筋肉が生き生きと躍動するのを感じる。手近な所に枇杷の実が現れると、男は腰に差していた折り畳みの鋸で枝を切って地面へ放る。同様の作業を幾度か繰り返し、十分な量を得ると木を降りる。枇杷の木は木肌がスベスベしているのでうっかり手足を滑らせないように気を付けなければならないが、その触り心地の良さには親しみを覚える。
 男は、木の下に腰を降ろし、今自分が登っていた辺りを眺めながら、そこで採った果実を食べるのが好きだ。シャツの裾で実を軽く擦り、産毛の生えた皮ごと口に丸々ひとつ放り込む。果汁が喉の渇きを潤し、甘味が体の疲労を癒す。大きな種を土の上に吹き出してまたひとつ、もうひとつ、と満足のいくまで口に運ぶ。少し休んだら枇杷を籠に詰めてのんびりと家へ帰ろう。葉も持ち帰って枇杷の葉茶にしよう。枇杷の葉はなにか体にいいらしい、と先日テレビで見て知ったのだ。何であれ、健康にいいという食べ物などが自然と気になる。自分ももうそんな年になった。
 そんな年。
 男は疑問に思った。私の年齢。男は自分の両手を見つめた。光の加減だろうか、やたらに皺が多いような気がする。と、その視界がぼやけて世界の輪郭が曖昧になる。急に視力が衰えてしまったように。心なしか、不安になる。気の遠くなるような思いがする。男は思う。確かに、私はもう若くはない。しかし、若い、とは一体いくつまでのことをいうのだろうか。私は今、いくつだったろう?
「お父さん、来たよ」
 声のした方に顔を向けると、部屋の入口に中年の女性が立っていた。
「あら、また山の写真を見てたのね」
 男はベッドの上で上半身を起こし、その手元には一冊のアルバムが開かれている。
 私の山。愛しい山。
 アルバムに添えられた弱弱しい痩せた手には、はっきりと深い皺が刻み込まれている。それが自分の手であるという事実が、男にはとても遠く感じられた。
「最近暑いね。ここは空調が効いてるけど。そうだ、山で採れた枇杷を持って来たのよ。お父さん好きでしょう?職員さんにもあげたら喜ばれたわよ」  男の手に、今そこで採ってきたばかりというような、まだ葉のついたままの枇杷が渡された。
「好きなだけ食べて、お父さん」
 男はじっと枇杷を見つめ、そして自分を「オトウサン」と呼ぶ女性に向かって言った。
「これはどうも…さっきも随分、家の山で食べてきたんですけどね」
 女性は一瞬、困ったように眉を下げたが、すぐに笑みを浮かべて、
「また、山の中を冒険してたのね」
 と言った。
 男の心に「ボウケン」という言葉が心地よく反響した。
 窓の外でひぐらしが鳴いている。山の季節は目まぐるしく変わってゆく。夏の終わり、秋の気配。男の心は、再び、山へ……。
(了)